幕府直轄の教育

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 江戸幕府の教育施設といえば、まず歴史も古く規模も宏壮であった昌平坂学問所をあげなければならない。この学校の起源は、近世初期の寛永7年(1630)、林羅山が幕府の儒官(じゅかん)という地位にあって将軍の内意と保護をうけ、上野忍岡に建てた林家塾にはじまる。
 家康以来、文治主義政治の根本思想として朱子学(しゅしがく)を重んじ、歴代の将軍たちはこの林家塾を厚く保護し、塾主を大学頭として世襲させた。元禄4年(1691)、将軍綱吉の発意で、忍岡の孔子廟と学舎を神田湯島の昌平坂上に移し、壮麗な学問所を建設した[図9]。
 

[図9] 元禄当時の昌平廟学図(『文京区教育史 学制百十年の歩み』より転載)

 この昌平黌(しょうへいこう)には、幕臣をはじめ全国の藩士が続々と入門して儒学(朱子学)の研修に励んだ。学徒数は、寛永7年~延宝8年(1630~1680)において332人、貞享~享保期(1684~1736)にいたって500人に達した。こうした儒学生の多くは、卒業ののちに、諸藩の儒官として採用されていったから、昌平黌は当時学界・教育界の主導権をにぎっていたと判断できる。
 その後、昌平黌は幕府の援助の後退、林家朱子学に対抗する儒学諸派の台頭などもあり衰退の傾向を見せることもあったがこうした中、寛政2年(1790)5月24日、松平定信による「異学の禁」の布告が行われた。これは、「朱子学を正学とし、これ以外を異学として、昌平黌にあっては、もっぱら正学を講究すべきで、断じて異学を交えてはならない」というのがその趣旨であった。
 幕府は、昌平黌の官学としての地位を復活させるとともに、一方では当時の世情を反映させて各種の武芸教育施設を設置している。これは、寛政年間(1789~1801)に至るころ、外国船の日本近海出没がさわがれだしたためである。また、老中松平定信による「文武奨励」の寛政の治の実践の一つでもあった。
 『港区史』によれば、寛政3年6月13日、桜田御用屋敷内に的場・馬場を設けて、諸士の弓馬の訓練をおこなったと記されている。また、享和2年(1802)4月27日、虎の門外に、文化4年(1807)8月には、芝将監橋の西方の明地に、それぞれ大的場、馬場を設けた。更に、弘化元年(1844)2月、赤坂今井に角場を設けて砲術の修行を奨励した。講武所としては、安政2年(1855)1月、麻布広尾をはじめ3カ所に設置された。芝新銭座には、「大小炮習練場」が設置された。