■新銭座習練場

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  豆州韮山の代官江川太郎左衛門英竜は、天保一二年(一八四一)長崎町年寄で蘭学・西洋式砲術家として著名な高島流砲術家高島秋帆が、幕府の命で江戸に在ることを知り、彼を師として砲兵術を学んだ。
  翌一三年、英竜は、幕府に願い出て、砲兵塾を開くことを許され、新銭座跡地(現港区海岸一丁目付近)に設置した。塾生には、佐久間象山が、藩主信濃松代の真田信濃守の命で入塾したのをはじめ、本多越中守、松平河内守、勘定奉行川路左衛門尉など幕閣の歴々や、桂小五郎(木戸孝允)、橋本左内、黒田了介(清隆)、大山弥助(巌)など維新で活躍した人々がおり、最盛期には四〇〇〇人にも達した。
  英竜は、このほか、大船建造・内海防備・台場構築・大筒鋳造・反射炉建設などの大事業を幕府のためにすすめていたが、江戸本所南割下水の邸で、安政二年(一八五五)に病死した。死後、その子英敏は、亡父の御用向全部を相続し、安政二年五月に芝海岸に面した関但馬守屋敷地の一部を「大小炮習練場」、組与力、同心の住居を含み拝領した。その後、習練場はさらに拡張されたが、慶応二年(一八六六)内外の事情が緊迫したため、幕府はこれを解体した。
  福沢諭吉の慶応義塾は、この習練場跡地を一部使用した。
               (『港区の文化財』 第2集)
 
また、武芸教育施設を除く、幕府直轄の学校には次のようなものがある。
 
  ・和学講談所 (寛政5年) 麹町六番地  塙保己一
  ・開成所   (文久3年) 九段坂下   古賀茶渓
  ・医学所   (万延元年) 神田お玉が池 伊東玄朴・大槻俊斎
   (年代は幕府移管を示す)
  ・城南読書楼 (享和年間) 南麻布一丁目
   述斎大学頭林衡が、古川端に建て「城南読書楼」と命名した。学校は昌平黌の支塾であり、当時の学生は「南校」とよんだという。
   学頭は、越前鯖江藩士大郷信斎で、林門五蔵の一人であった。