藩校への入学は、7、8歳が通例で15歳で卒業させている場合が多い。このように藩校が初等教育の場になったのは寛政期のころからで、「異学の禁」などの影響も考えられる。一方、水戸藩の弘道館のように、15歳以上になってから入学させる藩校も少なくなかった。この種の学校は、家塾・私塾などで習字や素読の初等教育をすませた者に、さらに高い教養を身につけさせようとするものであった。課業の形態では、素読・講義・会読・輪講・質問など漢学特有の指導方法がとられた。これは、学習様式の種別であるのと同時に、学力の進歩にともなう学習の段階でもあった。
出雲松江藩の文明館〔宝暦8年(1758)創立〕が文久2年(1862)に制定した教育課程[図11]をみると、10段階の等級を定め、入学時の10級相当には子どものために編集した三字経・千字文・孝経で四書に入るための準備学習をしていることがわかる。このように各藩校では独自の教育計画により、指導をすすめたため、それに利用する教科書の編集や出版もさかんになった。
笠井助治著『近世藩校に於ける出版書の研究』によると、天明より享和年間(1781~1803)にかけて、急速に発刊数が増えるばかりか、刊行される内容も多様化していると述べられている。
漢学のほか、医学・本草学・兵学・洋学・和学・書画・数学(暦学をふくむ)・学規教訓と種類も多く、洋学では地図・地誌・辞書・理科学・医学と範囲も広い。そしてこれらは、安政年間を過ぎると、各分野を独立させていった。
[図11] 松江藩文明館教育課程