港区地域内の藩邸学問所

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 当時、江戸定詰の藩主、藩士の子弟の教育機関も欠くことができなかった。前述したように、港区内には多くの儒学者・文人が居住していた関係から、これらの学問所教官には不自由しなかったと思われる。江戸藩邸学問所での指導を高く評価され、藩地に招かれた学者もいたと思われる。
 当時港区内にあったとみられる藩邸内学問所は[図12]のようになっていた。
 

[図12] 港区地域内江戸藩邸学問所(『日本教育史資料』)

 
■武芸稽古所
  天明七年(一七八七)中川久貞が、芝口二葉町の江戸邸内に設立した。のちに藩邸が鉄砲洲に移転したので稽古所も移っている。
  同所は、藩主の子弟を対象にし、八歳で入所、一五歳で武芸を学ぶことになっていた。教科目は、漢学・医学・兵学・習礼・歌学・弓術・馬術・剣術・槍術・柔術・棒術・捕術と広い範囲にわたり、教科書として孝経・四書・五経・左伝・史記・漢書・歴史・諸子などを用いていた。
  教育方法も、素読・会読を主とし、武芸は各術を毎月三回から六回にわたり訓練させた。また、所外への遊学もさかんで、天保年間以降は優れた子弟を藩費で留学させている。
 
■敬脩堂
  弘化元年(一八四四)麻布江戸見坂藩邸内に設立。創設者は藩主土岐頼寧である。文久二年(一八六二)頼之の代になって、それまでの学問所を拡張して藩地にある沼田学舎の分校敬脩堂と名称を改めた。
  ここでは、藩士の子弟が七、八歳になると藩重役に申請し、許可を経て入学させることになっていた。退舎の時期についての規定はないが、年一回大改、月二回小改と称する試験制度があった。