寺子屋の教育[図13][図14]

95 ~ 96 / 243ページ
 寺子屋の起源は、中世室町時代の後期にまでさかのぼるといわれる。『日本教育史資料』には、文明・大永年間(1469~1527)に寺子屋の存在を認めている。
 これ以後、元亀年間(1570~1572)にも創設されていた報告がある。全国的に激増したのは享保年間(1716~1735)以降より幕末・明治時代前期にかけてであった。
 『日本教育史資料』によると、文化年間(1804~1817)ごろから急増し、天保年間(1830~1843)から慶応年間(1865~1867)にかけては倍増したことがわかる。
 

[図13] 寺子屋開業のようす

 
 
 これらの寺子屋は、江戸・京都・大阪というような大都市はもとより地方城下町・宿場町・門前町といった町々、更に農漁村にまで浸透していった。
 寺子屋の教育内容はまさに、これら庶民の要望に対応したものであった。更に、同じ都市でもその地域性により、教える内容にかなりのへだたりがあった。江戸市中の山の手(区内では麻布・青山などの地域)と下町(芝地域)では、手本・往来物などに違いがあった。
 

[図14] 寺子屋の授業風景 (『文京区教育史 学制百十年の歩み』より転載)

 
■山手辺
  手本中、「商売往来」ノ如キハ適切ナラズトシテ、カエツテ千字文・唐詩選等ヲ好ムノ風アリシハ、トクニ弟子ノミニハ限ラザルニ似タリ。カツ書風ハ当時、御家流ヲ学ブ者、スコブル多シトイエドモ、マレニハ唐様ヲ珍重セシモノモアリ。マタ、算術ノ如キハ、コレヲ学ブ、ハナハダ多カラザリシトイフ。ココヲモツテ、此ノ地ニ適スル師匠ハ比較上、ヤヤ学力ヲ要スルモ、算術ハ知ラズシテ不便ヲ感ゼザルニ似タリトイハンノミ。
 
■下町辺
  町人スナワチ商工ノ徒ヲ夥多ナリトス。手本中、「商売往来」ノゴトキハ、ハナハダ必需ニシテ、マタカネテ職エノ徒ニハ「番匠往来」テウモノヲ授ケシモアリシトイフ。シタガツテ算術ヲ学ブ者、スコブル多カリシハ、モチロンナリトスシモアリシトイフ。
          (『維新前東京市私立小学校教育法及維持法取調書』)
 
 江戸中期以降の寺子屋の教科書としてひろく使用された往来物は、現存するものだけでも7千種にものぼっている。そのうち、千種は女子用に編集されたものである。地域の特性を配慮する必要から、大都市の武家地、商人地、職人地、地方都市、農村、漁村向けと、とりあげる教材はさまざまであった。また、その分野も教訓・社会・語彙(ごい)・消息(手紙文練習)・地理・歴史・産業・理数と多様であった。
 
 学習課程は、「いろは」の平仮名書きからはじまり、「一・二・三・………拾・千・万・億・兆・京」という数字になる。これが終わると漢字に入る。幕末期には、漢字学習のために「単語往来」と呼ばれる一群の往来物が作られている。更に、名寄往来(皇国姓名誌など)、短句、日用文章とすすんでいく。これらの学習課程は、幕末期にほとんどの寺子屋で定着したといってよい。
 寺子屋の師匠は、僧侶・武士・浪人・書家・医者・神官のほか町人と多岐にわたっているが、江戸では武士・浪人の割合が高く、更に女子師匠が多かった。男子師匠100に対し、女子師匠は55・1であった。これは、大都市ほど、女子の寺子屋就学率が高かったことと深く結びついている。
 江戸市中の寺子屋の状況をみると、日本橋区(30)・芝区(29)・浅草区(25)・麹町区(20)・深川区(20)・京橋区(17)・神田区(14)となっている。日本橋区・芝区・麹町区・神田区は、他の地域にくらべその数で上位を占め、幕末期における文教地域であったことがわかる。
 
関連資料:【くらしと教育編】第2章第1節 (3)港区域の寺子屋―武家地と町人地―