区内の寺子屋

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 区内における寺子屋の普及は、芝地域が中心であることは当然である。町屋の分布からも、品川から新橋にかけての街道筋に集中していたと考えてよい。寺子屋が全国的に普及しはじめた享保7年(1722)、幕府はこれを重視し、室鳩巣(むろきゅうそう)に命じて『六諭衍義(りくゆえんぎ)大意』『五常和解』『五倫和解』を作らせて、江戸市内の寺子屋に配布した。
 天保14年(1843)、江戸南町奉行矢部定謙は、市井の師匠に対し、その教育の労を多とし、次のような一文を添えて、『六諭衍義大意』を賞として与えている。
 
  寺子屋の師匠に与えた賞状
   町々手習師匠致スモノ、筆道而巳ナラス、弟子共教育ノ儀、先達テ書取ヲ以テ申諭置候処、其方共儀、厚ク謝意ヲ守際立弟子共教育方、万端行届、親切ニ取扱候趣相聞、一段ノ事二候、依之誉置
 
 港区地域内では、兼房町半助、高輪の浪江、赤坂の新太郎が受賞していることが記録に残っている。
 港区内の寺子屋を『日本教育史資料』(第8冊)より作成したものを一覧表[図15]にしてみると、その数は47にのぼり、旧芝区はそのうちの半数29を占めている。教師は、男教師49名、女教師17名、計66名である。生徒数は、男2209名、女2173名、計4382名に達している。
 

[図15] 港区内の寺子屋の状況(『日本教育史資料』より作成)

 最大の寺子屋は、赤坂黒鍬谷の歳泉堂で生徒数は300名を数え、最小は麻布宮村町の大隅堂で、生徒数は10名であった。
 これらの寺子屋のうち、明治維新後、そのほとんどは私立小学校になった。また、明治維新以降も数多くの寺子屋が開業し、新政府が作る公立学校と競合することになった。
 
関連資料:【くらしと教育編】第2章第1節 (4)武家地の寺子屋 赤坂・歳泉堂