私塾はその名称のとおり、市井の学者による個人経営の塾のことで、前述の実用本位の寺子屋の教育にくらべれば、更に高度の教養とともに、専門的な知識や技術を指導する教育機関であった。藩校でもそうであったように、江戸時代後期にはいると、従来の儒学(じゅがく)とくに朱子学(しゅしがく)一辺倒の教育にあきたらず、儒学各派や国学、洋学を志す者が武士階級だけではなく、富裕町人階級にも現われた。
これらに対応したのが私塾で、荻生徂徠(おぎゅうそらい)・太宰春臺(しゅんだい)の漢学、賀茂真淵・村田春海・加藤千蔭らの国学・歌学、青木昆陽・宇田川玄随らの蘭学は江戸市中に定着し、その学習内容は高い水準を示した。
また、これら私塾の学問水準を知り、地方の諸学者が門戸をたたき、更にその学者の教えを請う者も全国から集まった。
幕末期に至ると、各藩は、「内憂外患」の世情への対処から、「富国強兵」「殖産興業」政策のために藩校充実をすすめた。その学習内容に大きく取り入れられたのが洋学で、軍事技術・医学・天文学・測量学・本草学(植物学)などの洋学の知識導入の必要性が切実に認識されるに至った。こうした教育情勢の中で、長崎の鳴滝塾、大坂の適々塾が登場した。
このほか、私塾で著名なものには、細井平洲の嚶鳴館(おうめいかん)や大塩中斎の洗心洞、大原幽学の改心楼など特色のあるものが多い。吉田松陰の松下村塾のように、幕末・維新期に活躍した人々を多く巣立てたものもある。このようにみると、当時の私塾は、教育機関として鮮明な魅力をもっていたことがわかる。