これらの私塾中著名なものが、福澤諭吉によって開設された慶応義塾である。慶応義塾は、林鶴梁の端塾、川崎魯助の尚志堂とともに表にみられるとおり300名の塾生を有する大塾であった(慶応義塾については後述)。
なお、私塾は寺子屋と違い、女子はほとんどみられない。また、区内の私塾の成立は、幕末弘化年間(1844~1847)以降で、天保年間(1830~1843)に創設されたものは、芝葺手町の観頣堂、芝西久保城山町の尚志堂のみである。
明治6年(1873)の『開学明細調』をみると、これら江戸時代末期の私塾のうち、明治以後存続したものもあり、また、明治期になって開校した数も驚くほど多い。これらの中から、繕生塾と勧学義塾の『家塾明細表』により、当時の私塾の様子をみると次のようである。
[図16] 港区内の私塾の状況
[図17] 開塾当時の勧学義塾
家塾明細表 第二大区小七ノ区八番地所拝借地芝森元町一丁目
三潴縣貫属士族
塾主 山本甫文
天保十四癸卯正月旧幕府医員桂川甫賢入門仕 嘉永元戊申年十二月迄六ヶ年間
従学 嘉永五壬子十月ヨリ開業
塾名 繕生塾
位置 第二大区小七ノ区八番地借地芝森元町壱丁目
学科医術 西洋内科術・西洋外科切断術
教授書籍 合信氏 全体新論 婦嬰新設 内科新設 西医略論
活賢朴私氏 コルネル氏 理学書 地理書
ピネオ氏 英文典
生徒 一九歳以上 総計男八人
右之通相違無御座候也
壬申十一月 山本 甫文
私学明細表
黌主 石川 総管
同 遠藤 胤城
開業 明治五壬申年二月五日
黌名 勧学義黌
位置 第二大区二小区愛宕下町二丁目乙一番地社中持地
学科 英学 洋学 支那学
教員 (各教員に履歴が記入してあるが省略)
英学変則 請持
秋山政篤 壬申二十七歳
教授書籍概略
グードリッチ万国史 仏国史 聯邦史 クエツケンホス窮理書 ハーリー万国史 ハーリー地理書
小米国史 文典 地理学初歩 英語綴 第一読本 第二読本
英学変則請持 久恒雄五郎 壬申二十六歳
同 服部 照朝 壬申二十三歳
洋算請持 駒野 政和 壬申二十一歳
教授概略 第一等 重学 二等 徴分 積分 三等 円椎方 代数幾何
四等 高等代数 五等 三角法 幾何学 六等 代数学
七等 対数用法 開平開立 八等 比例 小数 分数
初等 加減乗除
洋算請持 栗林 清 壬申二十三歳
英学通弁請持 杉浦 正修 壬申廿二歳
支那学受持 福井純一郎 壬申二十一歳
外国教師 英国人
英学 エドワルト・ランベルト 壬申二十六歳
免許 (期限を記す……略)
雇中止宿場所 勧学義黌邸内
給料 一ヶ月金百五十円也
教授書籍概略
朝 第七時ヨリ八時半迄 隔朝 クエケンホス 窮理書講義
ウェーランド 経済書講義 附地理書
第八時ヨリ十時迄 文典書取
第十時ヨリ十二時迄 第一アビシ組 隔日 ヲニオンリートル素読
会話書取 スヘルリングブーク綴字法
午後 第一時ヨリ三時迄 一ノ組 文法書聞取
第三時ヨリ五時迄 ベートルバリー万国史素読及尋問
英学 英国人
アルベルト・イザークス
壬申二十六歳
略
生徒人員
六歳以上九歳マテ 男六人 十歳以上十三歳マテ 男三十七人
十四歳以上十六歳マテ 男六十人 十七歳以上十九歳マテ 男八十八人
十九歳以上 男八十一人 総計二百七十二人
社中人名 東京府貫属華族 松平 忠恕
以下三十七名略
関連資料:【文書】私立・諸学校 慶応義塾