元禄末期から享保年間(1700~1735)ごろは、江戸時代前期の経済混乱期であった。
公儀普請の江戸商人、相場商いの大阪商人、大名貸の京都商人たちは幕府・藩主財政危機のあおりを受けて、一種の経済恐慌の中にあった。
また、幕府を中心とする封建権力の重圧下、どのように町人たちの商業活動を維持推進したらよいか、町人の生活倫理をしっかりと位置づけ、商取引の秩序を明確にする必要が生じたのである。このような時代の要請に応えて、石田梅岩は、儒学・仏教・神道・道教等の説を採り入れた心学を提唱した。その根本は倹約・正直・忍耐を守り、各人もその身分をわきまえ、現在の境遇に満足すべきであるというものである。
更に当時の重農抑商主義政策に対し、商業の正当性を強調し、士農工商すべて道は一つであると、人の平等を説いたことは注目される。
しかし、学習内容はあくまで町人主体で、儒学を変質させ、文芸化・平易化を図ったものとして、世に俗流儒学といわれるようになった。
この石門心学が普及したのは、門人に手島堵庵(とあん)(1718~1786)が現われてからである。明和2年(1765)に堵庵は、京都富小路朝倉町に五楽舎とよぶ心学講舎を設けた。天明5年(1785)までに、講舎は全国に22舎が誕生したが、いずれもその維持に当たる都講(心学講舎の三役)には町人門下がなった。
講内研究書には、『四書』『近思録』『小学』『都鄙(とひ)問答』『斉家論』を用い、同門者が討議・学習するのが常であったという。
江戸に講舎が起立したのは、安永7年(1778)夏のことで、堵庵の門人中沢道二(1725~1803)が、天明元年(1781)日本橋通塩町に設立した参前舎をもってはじまりとしている。江戸府内の心学講舎は[図18]のとおりである。
[図18] 江戸にあった心学講舎
区内にあった圭明舎は、天明末年(1787、88年ごろ)、北条玄養の私財をもって芝愛宕下の私邸内に建てられた(石川謙著『心学教化の本質並発達』)。しかし、のちに木挽町(中央区)に移転しているようである。
郷学は、寺子屋・私塾が私学であるのに対し、公立的要素の強い性格をもっている。そこでの教育は、藩校と同様に儒学を中心とする「読み」「書き」が主たるもので、その入学年齢も7、8歳が普通であった。
郷学の発生は、文化・文政期(1804~1829)がもっとも多くこの点でも藩校同様である。藩主・代官などのすすめや民間有志の自発的意図から発足したものが多い。
郷学で有名なものは、備前岡山藩内の閑谷(しずたに)学校で、寛文7年(1667)藩主池田光政は、領内各地に手習所を置いたが、延宝2年(1674)に12郡14校に整理し、更に併合して学問所としたものである[図19]。
[図19] 閑谷学校(公益財団法人特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会提供)
郷学の中には、庶民の間からも起こったものもある。享保2年(1717)の摂津平野郷町の含翠堂(がんすいどう)がその代表的な例で、ここでは民間有志の拠出金・寄付で、教師を雇い、運営、儒学(陽明学)を中心に庶民対象の教育をおこなった。また、この含翠堂は、貧民救済事業もあわせおこなった(津田秀夫『近世民衆教育運動の展開』)。
江戸の郷学は、幕府直轄のものとして、深川教授所〔享保8年(1723)〕・麹町教授所〔寛延3年(1750)〕・麻布教授所〔天保4年(1833)〕の3校があった。このうち、麻布教授所は城南読書楼のことで、前述(第2節第2項(1)89ページ参照)したが、天保14年、鯖江藩江戸藩邸内藩校惜陰堂の儒学者大郷信斎の麻布古川橋の宅地を、幕府の許しを得て大学頭林衡の持地として設立したものである[図20]。
[図20] 現在の古川橋南詰より上流を望む(港区立みなと図書館編『写された港区』3)
ここでは、毎月3回、大郷信斎によって儒学講座が設けられていたが、彼の没後(天保15年10月)廃止された。しかし、教授所はそのままの姿で残り、信斎の養子浩斎、その子学橋に引継がれていった。安政6年(1859)大郷学橋が、国事に奔走したかどで帰藩を命ぜられたあと、林大学頭は、芥川舟之に教授方を命じた。