慶応義塾の発足

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 安政5年(1858)、大阪適々塾の塾長であった福澤諭吉は、豊前中津藩より江戸出府の命を受けて同年10月江戸入府、直ちに鉄砲洲(現中央区聖路加国際病院付近)の藩中屋敷長屋に蘭学塾を開いた。ときに諭吉は25歳で、これが慶応義塾の起源である。
 福澤諭吉の父は、豊前中津藩の藩士福澤百助、身分は藩主に定式の謁見(えっけん)ができるといっても、13石2人扶持の武士階級の出身であることはよく知られている。諭吉は天保5年12月(1835年1月)大坂堂島の中津藩蔵屋敷の長屋で生まれた。これは、父百助が藩の御廻米方で、年貢米の売りさばきの仕事をしていたからである。百助はどちらかといえば学者肌で、この仕事はかなり苦痛であったらしい。後年諭吉は「父の生涯は封建制度に束縛され、何事もできず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ(略)私の為に門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」と『福翁自伝』で述べている。
 しかし、福澤家の仕える中津藩奥平家は、当時としては開放的な風潮をもつ藩の一つであった。明和6年(1769)、藩主奥平昌鹿は青木昆陽の門人としてオランダ語を学んでいた藩医前野良沢に100日の休暇を与え、長崎に留学させている。また、有名な『ターヘル・アナトミア』の翻訳書『解体新書』も、杉田玄白・中川淳庵とともに作業をすすめたところは、中津藩中屋敷の前野良沢の役宅であった。
 諭吉の将来を決定づけたのは、緒方洪庵との出会いであった。大阪の適々塾での修業により洋学者としての地位を固め、彼特有の時代に対するバランス感覚を養ったと思われる。蘭学を通じて広大な世界に対する認識と、洪庵からうけた人格的感化が、諭吉に新時代に適応する人材の育成という教育への道を選ばせた。
 万延元年(1860)、苦心して学んだオランダ語が米英の外人にすこしも役にたたないことを知り、英学への転向を決意し、アメリカへ派遣される幕府軍艦咸臨丸に司令官木村喜毅の従僕の名儀で乗りこみ、現地で英語を学ぶ機会をつくった。
 文久元年(1861)、鉄砲洲の藩邸を出て、芝新銭座(芝浜松町1丁目)の借家に移転、藩士土岐太郎八の次女錦と結婚、蘭学塾もここに移された。
 文久2年、幕府は開港開市延期交渉のため、ヨーロッパに使節団を派遣することになり、幕府の外交文書翻訳係であった福澤諭吉の随行を命じた。文久3年、帰朝した諭吉は、蘭学塾内でようやく英語を教えはじめることになり、一方、塾はこの年の秋、再び鉄砲洲の中津藩邸に転居した。
 慶応3年(1867)、幕府軍艦受取方一行に加わり、渡米、多くの原書を購入して持ち帰るが、アメリカ御用中勤めかたに不届の所業ありとのことで謹慎を命ぜられ、持ち帰った原書類は差し押さえられた。幕府の大政奉還ののち、謹慎が解かれた諭吉は、塾生急増のため、芝新銭座の有馬家中屋敷を買収、翌慶応4年・明治元年(1868)4月、塾を移し、それまで名称の無かった蘭学塾を慶応義塾と命名した。
 同じ月11日、官軍が江戸城を収め、5月には彰義隊が上野に立てこもったが、その砲声の中で諭吉がウェーランド経済書の講義をしたことは有名な話である。明治2年には、塾生が100名を超える状態であったので、新入塾を断るほどであった。明治4年、岩倉具視に依頼していた三田の島原藩邸を借入れることができたので、移転をはじめ、明治6年には慶応義塾医学所、大阪分校の設立、同7年には、幼稚舎と京都分校を、同8年には三田演説館がつくられた[図21]。
 

[図21] 三田移転当時の慶応義塾・明治4年、島原藩邸跡(慶應義塾福澤研究センター所蔵)

 明治元年版「慶応義塾之記」の付録、日課表によると、講座は一種の競争制になっていることがわかる。入塾にあたっては、入学金として金3両、月謝は毎月金2分、盆と年の暮に金1000匹(1匹は銭10文または25文)を徴収した。この授業料の徴収は、慶応義塾と名称を整えた明治元年からのことである[図22]。
 

[図22] 慶応義塾の日課表

 授業内容は、西洋のいろは、すなわちABC……を覚え、理学初歩または文法書を3カ月で終え、地理書または窮理書を6カ月、歴史書を更に6カ月で読破して基礎課程を終り、独学に入る。
 独学に入ってからは、相互に教え合い研究を深める。先生と呼ばれその地位にあるものは福澤諭吉ひとりで、あとの門下生は皆同じで身分の上下はなかった。
 塾頭としての諭吉は、自らもウェーランドやチェンバーズの経済書から多くのものを学んだほか、近代ヨーロッパ・アメリカの思想家の影響を受けつつ、『西洋事情』〔慶応2年(1866)〕、『学問のすすめ』〔初編起草 明治4年(1871)〕、『文明論之概略』(明治8年)を執筆し、明治の変革期に大きな思想的影響を与えていった。
 
関連資料:【文書】私立・諸学校 慶応義塾