攻玉社の発足[図23]

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[図23] 近藤真琴像(『攻玉社百五十年史)

 攻玉社の創始者近藤真琴が、四谷坂町に蘭学塾を開いたのは文久3年(1863)のことである。
 文久3年、軍艦操練所翻訳方として幕府に仕えていた真琴は、ついで測量学科教授補助を命ぜられた。蘭学研究の成果も実り、オランダ人ビラールの航海書を翻訳してその名を知られるようになってからは、鳥羽藩邸内にあった蘭学塾の門をたたく者が多くなった。
 この蘭学塾は、最初名称もなかったが、やがて為錯(いさく)塾と称した。為錯とは「他山ノ石以テ錯(ヤスリ)ト為スヘシ」(『詩経』)からとられたもので、のちに築地に塾が再興されたときに攻玉社と命名されたのと、同意語と考えられる。攘夷(じょうい)運動のはげしい文久年間に、あえて海外の進んだ学術研究に取り組む当時の蘭学者の意気込みを感じさせる。
 明治2年(1869)、新政府は幕府の軍艦操練所跡地(築地)に兵部省海軍操練所を作り、海軍士官の養成にのり出した。これが海軍兵学校のはじまりである。この操練所の教官になった真琴は、官舎内に塾を再興させ、攻玉塾と称した。その後、慶応義塾が芝新銭座から三田に移転したあとの校舎その他一切を譲りうけて、攻玉塾が築地の官舎より移ったのは明治4年のことである。この新銭座は、江川塾(大小炮習練場から江川英竜没後蘭学塾となる)や慶応義塾、そして攻玉塾と、まさに幕末期より明治初年にかけての洋学揺籃(ようらん)の地となったところである[図24]。
 

[図24] 新銭座慶応義塾より攻玉塾に引きつがれた塾間取り(『攻玉社百五十年史』)
塾平面図(『慶應義塾七十五年史』より作成)

 攻玉塾の教科は、航海をはじめ、測量・和・漢・英・蘭・数の各学で、明治3年当時教師1名、生徒60名で教師1名は近藤真琴であり、高弟も生徒数に数えられていた。「学制」公布以後、学校の体裁を整え、高弟であった寺野元良・中村愿・前田享たちを教師としたが、まだ私塾の形態が残っていた(『日本教育史資料』)。
 明治3年の攻玉塾の規定には、次のようなものが残されている。
 
  明治三年春 白扇一対ヲ贄トシテ塾主ニ納メ、金五拾銭ヲ塾ニ納ムコトニ定ム
  同   夏 月謝トシテ金拾弐銭五厘ヲ納メシム、塾費ノ不足ハ先生自ラ之ヲ補ハル
  同   秋 学級ヲ分チテ九級ト為シ初級ヨリ一級ニ至ル、一ヶ年ヲ二期ニ分チ一期一学級ヲ了リ四ヶ年半ヲ以テ全級ノ修業年限トス、但シ英学・数学・漢学トモ各自ノ学カニ従ヒ等級ヲ定ム、故ニ一人ニシテ数学ハ五級ニシテ英学ハ七級ト云ヘルガ如キ者アリ
 
 攻玉塾は、明治5年の「学制」公布とともに「私学明細表」を政府に提出して、攻玉社となった。