[図25] 福澤諭吉像(慶應義塾福澤研究センター所蔵)
慶応4年・明治元年(1868)5月15日は土曜日で、当日は朝から上野の山にたてこもる彰義隊を攻撃する官軍の砲声が鳴りひびく中で、福澤諭吉はウェーランドの経済書を教材として講義をすすめていた。そして、心の落着かない塾生につぎのように訓誡したことを『福翁自伝』で述べている。
昔し昔し拿破翁(ナポレオン)の乱に和蘭国(オランダ)の運命は断絶して、本国は申すに及ばず印度(インド)地方まで悉く取られて仕舞て、国旗を挙げる場所がなくなった所が、世界中わずかに一箇処を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来和蘭人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に翻々として和蘭王国は曽て滅亡したることなしと、今でも和蘭人は誇って居る。
シテ見ると此慶応義塾は日本の洋学の為めには和蘭の出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曽て洋学の命脈を断やしたことはないぞよ。慶応義塾は一日も休養したことはない、此塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するなと申して、大勢の少年を励したことがあります。
また、鉄砲洲より芝新銭座に移り、慶応義塾と称したときの『慶應義塾之記』(慶応4年4月)にも、次のように記されている。
今爰に会社を立て義塾を創め同志諸子相共に講究切磋し以て洋学に従事するや、事本と私にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず苛も志あるものをして来学せしめんを欲するなり。(略)抑も洋学の以て洋学たる所や、天然に胚胎し、物理を格致し人道を訓誨し、身世を営求するの業にして、真実無妄、細大具備せざるは無く、人として学ばざる可からざるの要務なれば之を天真の学と謂て可ならんか。吾覚此学に従事する玆に年ありと雖ども僅かに一班を窺のみにて、百科浩澣、常に望洋の嘆を免れず、実に一大事業と称す可し
然ども難きを見て為ざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざる報国の義なきに似たり。
蓋此学を世に拡めんには、学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に傚ひ一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取て仮に慶応義塾と名く。
(『慶應義塾百年史』所載)
慶応義塾を一片の外国語修得の洋学塾に終らせようとしない、福澤諭吉の進取の気概と、鋭敏な時代感覚、啓蒙(けいもう)思想家としての姿を示していると思う。
幕末期、開国後最初のアメリカへの使節団に従僕としてもぐりこんだ諭吉は、万延元年(1860)5月5日帰朝した。わずか3カ月余の海外旅行であったが、生涯にとって決定的な事柄であった。
当時の洋学書生は、幕府の政策で社会科学分野の学習は禁じられていたため、いきおい物理や医学などの自然科学が中心であり、経済・政治あるいは法律などのことはまったくといってよいほど認識がなかった。
2回目の外遊、ヨーロッパ旅行〔文久元年(1861)〕で、社会科学分野の知識を深め、諭吉の思想を確立したことが『西航記』を通じて読みとることができる。
慶応義塾が開かれ、諭吉が教育者として活動を開始した1860年代は、世界史の立場でみればアメリカの南北戦争、ドイツ、イタリアが統一国家を建設した時代であった。日本の明治維新もまた、近代国家発展の線上にあった。『学問のすすめ』『文明論之概略』また『西洋事情』で、民権論や自由主義経済理論を高唱した諭吉に、先進工業国に追いつくための、封建体制の破棄、資本主義国家発展へ向けての啓蒙思想家としての姿を見出すことができる。慶応義塾はその意味で、諭吉の思想啓蒙の場であり、塾内に作られた三田演説館や万来舎は近代人育成の機関ともなった[図26]。
[図26] 三田演説館(慶應義塾図書館所蔵)