近藤真琴の実学理念

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 攻玉社創始者近藤真琴の教育理念も、当時としては近代国家建設の一翼をになうものであった。
 近藤真琴は天保2年(1831)、江戸麹町にある志摩鳥羽藩邸で生まれた。東京都公文書館蔵「開学願書」の中にある明治5年(1872)攻玉塾試験表の巻尾に、真琴の履歴が記載されている。
 
  皇漢学  元鳥羽藩儒者 小浜撲介
  漢学   元勢州亀山藩 堀池柳外
  蘭学   元岸和田藩医 高松譲庵
  蘭式兵学        大村兵部大輔
  蘭式航海測量      旧幕府海事操練所
  英式航海測量      英国測量士官グランド
  其他算術測量多ク原書ニ就テ相学候故是ト申教師姓名難書記候 英字亦懇意ノ者ニ一、二枚ツツ、素読ヲ受候得共大抵英蘭対訳文典、英蘭対訳辞書等ニヨリ研究仕候故是ト申教師姓名難書記候
 
 要するに、前記の人たちについて学習したが、あとは自学自習で英蘭学を学んだということである。
 安政5年(1858)、村田蔵六(大村益次郎)の鳩居堂の門にはいっている。蔵六は徴兵令により近代的軍隊を創設しようと考えた先覚者で、その後の真琴に強い影響を与えている。文久2年(1862)真琴は藩主に従って鳥羽に帰ったが、翌年再び江戸に出て、軍艦操練所翻訳方を命ぜられて幕府に仕えるとともに、軍艦奉行矢田堀景蔵(のちの海軍総裁)の塾に入って航海術や測量学を学んだ。塾の起立とその後の経緯については前述してある(本項(1)116ページ参照)。
 攻玉社の特色は洋学塾として発足し、やがて明治10年(1877)以降、商船黌(こう)と測地黌を設置し、技術教育に力を入れたことと、海軍兵学校の予備校的存在であったことである。これは、真琴の教育理念と結びついている。彼の理念の根底にあるものは、いつも「国恩の万分の一に報ずる」ことであり、近代国家形成期の人材の養成にあった。それも海軍・商船・測量といった主として技術的な面で国に役立つ人材の育成がねらいであった。
 芝新銭座は、またわが国近代私学教育発祥の地と称しても過言ではないであろう。
 大正7年(1918)、東京府は史跡に指定、「近藤・福澤両翁学塾跡」の碑が建てられた。現在の浜松町1丁目、区立神明小学校前であるが、当時の面影をとどめるものは何も残っていない。