江戸末期のこれらの教育施設は、明治維新後各分野の教育発展の重要な基盤となっていったことは明らかである。
明治維新は、政治・経済・社会にわたる大改革であったが、明治新政府はとくに新時代に即応できる人材の育成、国の近代化づくりの基盤としての教育政策に力をそそぎ、明治元年(1868)には、学校取調御用掛を発足させた。
明治3年2月に発表された「大学規則」によると、これは教育指導者を育成する教育機関の設置計画であったが、大学と結びつける中学や小学の規則も定め、大学・中学・小学の学校体系の設置を明らかにするものであった。当時は、廃藩置県以前であり、全国にわたる学校制度を実施することはできなかったが、すでに学校を政府の設置計画によって開設する方針をとっていたことは注目しなければならない。
一方、京都においては、これとは別に明治元年から教育計画をたて、翌2年には町番組を設け、各番組を学区として、64の小学校を開設し、番組内住民の財政協力によってこれを経営する方式がとられた。
また、各地でも新政府の教育改革の方策に沿い、初等・中等教育の設置計画をたて、旧藩校、家塾の改造をはじめていた。統一した学校制度が実施される以前のことでもあり、その性格も多様であったし、名称も、中等教育の場合には学校・藩学校・郷学校とし、初等教育の機関には小学・小学校・啓蒙(けいもう)所・義校などと称していた。
東京府は明治3年6月、芝増上寺源流院・市ケ谷洞雲寺・牛込万昌院・本郷本妙寺・浅草西福寺・深川森下町長慶寺の6カ所に小学校を開設した。港区内に設置された源流院内の小学校は「仮小学第一校」と称され、東京に設置された6校中、もっとも早く、初代校長大訓導(くんどう)村上珍休(沈休)のもとで、句読・習字・算術などを勉学した。この仮小学第一校が現区立鞆絵(ともえ)小学校で、開校当時校舎として使用した源流院は戦火で焼失して今はない[図1]。
[図1] 初の小学校「仮小学第一校(現区立鞆絵小学校)」(港区役所企画室『今日の港区』昭和43年版)
明治2年の版籍奉還の後、明治4年7月廃藩置県が布告された。教育行政の府として同年7月、文部省が設置され、全国の諸学校を統轄することとなり、東京府の6小学校も府より移管された。
また8月には、工部省所属の学舎工学寮が虎ノ門内日向延岡藩邸内に設置されるとともに、その寄宿寮が赤坂汐見坂下の松平大和守邸内(現在の大倉集古館付近)に設けられた。この学舎工学寮は、のちに工部大学校と改称し、外国人教師、ダイエル、ダイバース、クレーザー等を招き、近代工学の授業をすすめた。東京大学工学部の前身である。
関連資料:【文書】教育行政-総記-明治期~昭和期 公立小学校の開設
関連資料:【学校・教育関連施設】統廃合された幼稚園、小・中学校 鞆絵小学校
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (1)「仮小学第一校」の設置