政府の積極的な近代教育推進の政策も、当時の財政事情や、各方面への施策に忙殺されていたこともあり、思うように進まなかった。一般庶民教育は依然として寺子屋や私塾に負うところが多かった。寺子屋の数は、江戸時代を上廻り明治維新後の設立が多かったことがその間の事情を示している。明治4年6月、東京府内では521校の寺子屋があり、同6年すなわち「学制」公布後には、1128校に及んだ。
港区内の私塾・寺子屋は、名のある愛宕下勧学義塾(第2節第2項(2)105ページ参照)、芝露月町鳴門塾、芝新銭座攻玉塾などのほか、50数校を数え、そのうちには外国人教師を招き、英学、洋算を指導するものもあった。
当時、仮小学校の学習内容が、江戸期の寺子屋のそれと大差のないものであったこと、年間の教育予算が前述した6小学校の場合玄米200石と定められ、就学者の学習費が高額であったことと併せ推察すれば、私塾・寺子屋の繁栄は当然のことであった。更に、維新より廃藩置県を経て、俸禄を失う武士たちの私塾・寺子屋教師への転職も見逃せない。
明治5年3月、文部省は近代的な学校制度の基本を定めた「学制」公布に先立ち、私学・私塾に対し免許制とすることを定め、開業届を提出させた。