しかし、当時のわが国の国力と民情にはあわず、理想にはしりすぎた観があった。しかも政府の実施にむけての強行策は、地方行政機関、地域住民の教育経費膨張に堪えられない状況を生みだした。一方、自由民権運動の盛り上りは、政府攻撃の一端として学制改革に及んだ。政府は、ついに明治12年、太政官布告により「学制」を廃し、新たに「教育令」を公布するに至った。
「教育令」は、「学制」にみられる教育に対する政府干渉を極力排し、その条文も47カ条にまとめられ、しかも小学校に関する規定が大部分を占めていた。内容には、公立小学校設置の条件、義務教育履修年限等に弾力性をもたせてあった。
[図3] 教育令公布について、芝区長から東京府知事に宛てた伺い(東京都公文書館所蔵)
小学校で履修する教科目についても、「学制」の規定を大幅にゆるめて、読書・習字・算術・地理・歴史・修身の初歩とし、地域の特性に応じての履修教科を示したにすぎなかった。
自由主義を基調とする「教育令」の施行は、直ちに問題を生じた。すなわち、府県によってはこの「教育令」が、学校の設置や経営を自由にしたと解釈し、小学校を廃校とするところもあり、地域によっては就学率が低下する情況もおこった。このため、明治13年、政府は「教育令」を改正し、更に明治14年、従来の学区を廃し、区を単位とする学区を定めた。
明治15年には、東京府知事は、「教育令」に従う「小学校教則綱領」を定め、小学校を初等・中等・高等の3科に分ち、区役所に学務担当の書記を置くこととした。
これらの「教育令」とその改正をめぐる教育界の動きは、次に来る明治19年の学校令公布までの短い期間の中であった。そして、改正の動きの中心は、初等教育すなわち小学校を中心としたものである。
港区内には、国や府県に先立って学校設立の動きがあった。
・明治11年 麻布区会は麻布区公立学校維持仮条例可決
・明治12年 飯倉(いいぐら)小学校内に庶民夜学校設立。のちに深仁夜学校となる。
・明治14年 麻布小学校に庶民夜学校設置。これは、東京府が実業補習学校を目的として設けたものである。
・明治15年 麻布区では、麻布・南山・飯倉の公立3校に初等を置き、南山・飯倉の2校の中等にすすみ、更に麻布の高等を履修させる方法で対応した。
港区地域のこの時期における小学校教育の公私立校の割合は、『東京府学事第一二年報』(明治18年)によると、[図4]のようになる。
[図4] 明治18年当時の公私立小学校の関係(『東京府学事第12年報』明治18年により作成)
学校数では私立小学校は3・7倍であるが、在籍生徒数では逆に公立小学校が1・07倍となり、教師数でも公立小学校が1・29倍となっている。公立小学校の充実と定着化がすすんでいることを知ることができる。
関連資料:【文書】小学校教育 麻布区公立小学校附属夜学校