幼稚園開設の奨励[図9]

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 明治5年(1872)の「学制」は、「幼稚小学」を設定し、男女共6歳未満の者を対象、「小学ニ入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」と規定している。更に、明治9年には幼稚園開設の布達が出され、近代教育出発の当初より当局は幼児教育を重視していたことがわかる。明治15年、文部卿の示諭(しゆ)という形で幼稚園は生活に恵まれた家庭の子弟のものではなく、一般庶民とりわけ生活困窮者に大いに利用されるべきであること、官立幼稚園のような規模や編制にする必要はなく、簡素な施設・設備でもできるだけ普及発達を図るべきであることなどが通達され、幼児教育振興への積極的な態度が示された。
 明治15年の文部卿示諭を受け、「子守学校」が幼児教育及び保育の二元性をもって設置され、「簡易幼稚園」の設立が奨励された。明治17年、文部通達で学齢未満の幼児の小学校入学が禁じられ、幼稚園の幼児教育機関としての存在が明確にされた。「簡易幼稚園」の実現は、示諭後10年を経た明治25年、東京女子高等師範(しはん)学校付属幼稚園分室として、生活困窮者の子弟を対象とする施設を待たなければならなかった。
 明治24年、文部省令第18号で幼稚園に関する規則が制定され、市町村で幼稚園が設置できること。幼稚園保母は、女子で小学校教員の資格のある者、または府県知事の免許を得た者とするなどが定められた。
 明治32年には、「幼稚園保育及設備規程」が、更に明治33年の「小学校令」改正に際して、施行規則第9章に「幼稚園及び小学校に類する各種学校」とその位置が明確に示されるようになった。明治39年、キリスト教幼稚園協会が設立、ハウ氏の提唱により「幼稚園保育及設備規定」がまとめられた。
 

[図9] 大正期の幼稚園・私立三田幼稚園(岩崎正春氏提供)

 『文部省年報』によれば、全国での幼稚園の設置数は
 
  明治20年  67  (私立 14)
  明治30年 222  (私立 55)
  明治40年 386  (私立177)
 
とあり、設立数の急速な増加を知ることができる。大正期にはいってもこの傾向はとどまらず、大正2年(1913)には幼稚園数は566、園児数4万7283名、大正末期には園数千を超え、園児数は9万4422名に及んだ。
 大正15年4月、勅令第74号で、「幼稚園令」が公布された。これにともない、同令施行規則が文部省令第17号で示された。
 幼稚園に関する規定は、このときまで「小学校令施行規則」のなかに納められていたが、前記のように大正期の幼稚園発展と、独自な教育形態の発展から法規の分離独立の要請が高まり、全国規模の調査の結果、法令となったのである。
 この「幼稚園令」には、その目的として、
 
  幼児ヲ保育シテ其ノ心身ヲ健全ニ発達セシメ善良ナル性情ヲ涵養シ家庭教育ヲ補フヲ以テ
 
とあり、入園児の年齢を3歳以上とした。また、はじめて保母免許状の資格を定め、保育項目を「遊戯・唱歌・観察・談話・手技」とし、保母1名の保育数を約40名とおさえた。更に、この法令に関連して出された訓令で、
 
  父母共ニ労働ニ従事シ子女ニ対シテ家庭教育ヲ行フコト困難ナル者ノ多数居住セル地域ニ在リテハ幼稚園ノ必要殊ニ痛切ナルモノアリ
 
として早朝より夕刻まで保育してもよいと述べ、保育所の役割をも果たさせようとしている。
 昭和期の幼稚園は、幼稚園令のもとにすすめられ、昭和10年(1935)には、園数1890、園児数14万3610に達した。しかし、幼稚園令が制定されたとはいえ、小学校就学前教育としての消極的な地位しか認められず、教育行政関係者の関心も高いとはいえなかった。
 これらの事情から、私立幼稚園の占める割合が高く、昭和10年の園数でみると、その70パーセントは私立幼稚園であった。