中・高等教育の発展の項で述べたように、実業教育制度の基礎は、明治26年(1893)3月就任した井上毅文相によって築かれた。
この明治20年代後期は、わが国の産業革命期に相当する。日清戦争を契機として、急速に近代産業が進展し、産業教育は発展する近代産業への従事者養成の必要から生み出されていった。
明治26年には、「実業補習学校規程」、同27年には「徒弟学校規程」「簡易農学校規程」が制定され、その開設を促進させた。その後、明治32年には「実業学校令」が公布され、この法令に基づいて「工業学校規程」「農業学校規程」「商業学校規程」「商船学校規程」が、同34年には「水産学校規程」がそれぞれ文部省令で定められ、中等実業学校制度は確立した。また、これらの学校の教員養成のために、同32年に「実業学校教員養成規程」が制定され、農工商の実業教員養成制度が整った。
その後、社会の進歩や産業経済の発展にともない、明治36年「専門学校令」が公布され、実業専門学校は「実業学校令」から分離され、高等教育の分野にはいることになり、大学農工商学部と共に、産業経済の指導者育成機関となっていくことになった。
第1次世界大戦(1914~1918)による社会情勢の変化や諸外国の教育改革の動きに刺激され、政府は大正6年(1917)、「臨時教育会議官制」を公布し、教育の各分野について諮問し、答申を受けた。
実業教育に関する答申のうち、実施に移されたものに、高等実業教育の拡大がある。大正8年から6カ年計画で、高等工業学校を8校から18校に、高等農業学校5校を10校に、高等商業学校5校を12校に増加した。国立大学・私立大学に実業関係学部が増設され、実業高等教育機関は大拡充された。
また、実業補習教育や中等実業教育の分野の改善拡充にも及び、大正9年には「実業補習学校規程」「実業学校令」が改正され、産業教育関係の生徒数が大幅に増加した。更に昭和10年(1935)には、明治26年(1893)発足の実業補習学校と大正15年(1926)発足の青年訓練所の両者を統合する「青年学校令」が公布された。