大正11年(1922)、学力遅滞児及び精神薄弱児を対象とする補助学級が、赤坂尋常(じんじょう)小学校・筓(こうがい)尋常小学校、大正12年、鞆絵(ともえ)尋常小学校内に設置された。東京市の指導に対応したもので、各校1学級で20名前後の児童を受け入れた。
大正13年、麻布区では神奈川県藤沢町辻堂に、虚弱児童を養護し体質の改善を図る目的の養護施設を設置した。更に大正14年には、本村尋常小学校に学力遅滞児の補助学級が、昭和5年(1930)には虚弱児のための養護学級が置かれた。
昭和7年、東京市は麻布区本村町に光明(こうめい)学校を設立した。わが国における最初の肢体不自由児学校であった。東京市在住の、運動機能に障害ある者や肢体に異常のある者を収容、小学校普通教育のほか、自立のための職業教育を指導するとともに、肢体の治療矯正を目的とした。
昭和8年、麻布区南山尋常小学校に、わが国最初の弱視学級が開設された。この弱視学級の経営に力を入れたのは、東京盲学校師範部出身の尾上円太郎で、学級内の照明・机・教具等、その設備は現在のそれと比べ遜色(そんしょく)のないものであった。本区における心身障害教育も、現状への対応や施設拡充は戦後を待たなければならなかった。
関連資料:【学校教育関連施設】