港区の被害と市街地復興

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 大正12年(1923)9月1日、緩慢な微動にはじまった地震は、にわかに激動となり、次の瞬間には家屋が倒壊していった。しかも強い余震が次々におこり、倒壊した家屋からの失火による火災が市内各所に起こり、これが折からの強風にあおられて猛威をふるい広範囲の大火となった。
 いわゆる関東大震災である。この震災による被害は、地震による倒壊よりも火災による災害が大きく、とくに隅田川両岸の東京下町に集中した。
 港区内でも、震災直後各地域で火災が起こったが、延焼したのは赤坂田町と、麹町・京橋方面からの飛火による新橋から金杉・芝浦地域であった。被害状況をみると、芝地域の焼失戸数は42パーセント、赤坂地域は15パーセントであるのに対し、麻布地域はわずか1パーセント弱であった。
 おもな建造物の被害としては、オランダ公使館・日本赤十字社のほか官庁や銀行、寺社などで、とくに三田の日本電気株式会社は2・3階が倒壊し、死者93名を出している。
 関東大震災の復興は、まず道路からはじまった。港区地域内の特色である急坂がなだらかになり、舗装された。次いで、建物の鉄筋コンクリート化がすすめられた。これらが震災後の港区地域の景観を一変させたるようになった。
 これら、東京の市街復興の母体となったのは、内務省内に設置された復興局で、震災直後の大正12年12月、「特別都市計画法」の公布、翌13年3月の同法施行令とともに発足し、局舎は芝公園4号地に建てられた。復興局閉鎖後、同局舎は市立京橋商業(現都立芝商業高等学校)の校舎として利用され、戦後は昭和22年(1947)より昭和44年まで区立北芝中学校校舎となった。