区内の被害状況を見ると、小学校では、全焼が桜田小学校のほか8校、半焼は鞆絵(ともえ)・東町小学校であった。そのほか、区内の諸学校では慶応義塾大学・東京慈恵会医科大学をはじめ10校ほどが、全半壊・焼失の被害を受けた。
震災後、罹災(りさい)校は焼失や倒壊をまぬかれた隣接の小学校を借用したり、仮校舎での授業を再開し、やがて大正14年(1925)ごろから校舎を再建していった。
大正12年12月、東京市は全市の小学校長会を召集し、「本市小学校教育復興ニ関シ特ニ注意スベキ事項」を各学校に配布した。その中では次のような指示があった。
・小学校の規模は、将来義務教育年限延長を予想し、現在の高等小学校をすべて、尋常小学校内に併置するように計画をたてる。
・1学校の学級規模を22から28学級とし、1学級の児童数を48名とすること。
・通学区域の中央に校地を選定すること。
・校舎は、鉄筋コンクリート造りとし2階または3階建てとすること。
・教室の広さは、幅4間・長さ5間とすること。
このほか、屋内体操場・講堂・特別教室・避難施設・暖房に至るまで詳細に述べ、教育施設の近代化をすすめる姿勢をみせた。
この施策に沿い、港区内の小学校は鉄筋コンクリート化がすすめられた。大正13年11月に早くも竣工(しゅんこう)した鞆絵小学校をはじめ、港区地域の9校の復興が昭和4年(1929)までに完成した。このほか、大正15年(1926)に新設された赤羽尋常(じんじょう)小学校や改築の青山・白金・南山など、区内各校も続々と鉄筋コンクリート化していった。昭和10年(1935)に台町尋常小学校と高輪尋常小学校を合併し新設された高輪台尋常小学校は、その代表的な建物ともいわれた[図13]。すでに開校50年を迎えた同校の記念誌によれば、開校当時の校舎について、
全部の教室に、ラジオや学校放送がはいり、スチームの暖房もついていました。唱歌室は防音装置で、手工室や理科室には電動工具がそろい、体の弱い児童のための太陽灯もあり……
と、その設備を誇り、東洋一の近代的学校と自負するところがあった。
[図13] 昭和初期の高輪台小学校(『高輪台小学校開校50周年記念誌』)
関連資料:【文書】小学校教育 小学校通学区域
関連資料:【学校教育関連施設】
【くらしと教育編】第5章第2節 関東大震災と学校建築
【くらしと教育編】第5章第2節 (1)被災の状況