戦争の激化と教育への影響

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 昭和6年(1931)にはじまった満州事変は、日本国民を一五年戦争に巻きこんだ。この戦争は、昭和20年の終戦までの間に、明治維新以来築きあげた近代日本のあらゆる分野に壊滅的打撃を与えたが、教育分野についてももちろん例外ではなく、施設設備はもとより、多くの児童・生徒・学生・教員に大きな災害をもたらした。
 満州事変以後、次第に教育の戦時体制が強化され、「国体明徴」「教学刷新」が文教政策の基本とされていった。このような時代の動きを背景に、日中戦争に突入した昭和12年12月、内閣教育審議会が設置され、その答申に基づき、昭和16年3月「国民学校令」が公布された。
 この「国民学校令」は第1条に、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ、初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」と定めた。国民学校は、初等科6年と高等科2年によって編制されたが、これは旧来の高等尋常(じんじょう)小学校の学校体系と変わらなかった。また、中学校・高等女学校・実業学校については、そのすべてを中等学校とした。
 戦争の進行に伴い、中・高等教育の修業年限の縮小に手が入れられた。すなわち、昭和17年8月の閣議の決定にもとづき、中等学校の修業年限をそれまでの5カ年から4カ年に、高等学校・大学予科を3カ年から2カ年とした。
 続いて、昭和18年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」により学生を国土防衛及び生産・輸送などに組織的に動員できる体制が整えられ、同年10月には、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」で、一般学生の徴兵猶予を停止し、全国的に学徒出陣がはじまり、勤労動員を教育の一環として実施するに至った。
 サイパン島が陥落し、本土空襲が激しくなった昭和19年には、「決戦非常措置要項」を決定し、国民学校高等科から中等学校・高専・大学の生徒・学生は、軍需産業・食糧増産・防空防衛に動員された。
 更に、昭和20年戦局が苛烈となるにおよんで、「決戦教育措置要綱」が公布され、国民学校初等科以外の授業は停止され、「学童集団疎開強化要綱」を閣議決定し、大都会の児童45万人が強制疎開させられた。加えて、本土決戦に備えて「戦時教育令」が公布され、学校教育のすべてを停止し、疎開と各部門への動員という非常措置がとられ、学校教育は完全にその機能を失うことになった。