戦局が急を告げ、ヨーロッパ戦線での連合軍による「じゅうたん爆撃」が知らされると、学童疎開が急ピッチですすめられた。
昭和19年4月1日、「京浜地域人員疎開措置要項」が通達され、芝・麻布・赤坂3区の区役所内に疎開指導所が設けられて、縁故先のない者については極力各府県と受入れ交渉を進めた。
一方、国民学校初等科3年以上6年までの学童の集団疎開は、昭和19年6月を皮切りに、芝区は栃木県3862名、山梨県123名計3985名、麻布区は栃木県1726名、赤坂区は東京三多摩807名と6518名の学童が区内を離れた。空襲が烈しくなった翌20年には、集団疎開児童数は8958名を数え、縁故疎開児は9678名となったが、なお7500余名が区内に留まっていた。
第1次「学徒出陣」は、昭和18年12月であった。区内各高専・大学からも多くの学生が、校歌のうずまく学内壮行会の席から戦場に出陣していった。
明治学院の記録によれば、昭和18年11月30日の第93回理事会における学事報告には、「戦時教育ノ非常措置ニ依リ臨時徴兵検査ヲ受ケタル受験者、四一〇名、朝鮮台湾人志願者三二名」。同じ報告に、11月20日現在の学生数が、高等・高商両部で合計694名とあり、在校生の60パーセント以上に当たる者が徴兵検査を受けたことになる。このうち、12月に入隊した者の数は明らかではないが、推定によれば、おそらく200名余であったと考えられる。
同校出身の長谷川信の記録には、昭和17年4月に本校高等学部厚生科に入学し、同18年12月1日陸軍に入営、特別操縦見習士官となり、やがて陸軍特攻隊員に加えられ、昭和20年4月12日ちょうど23歳の誕生日に戦死した。
一方、区内の公、私立の国民学校高等科から中等学校・高専・大学に至るまで、戦場に行かない男女生徒学生は軍需工場に送り込まれた。
区内の戸板高等女学校の記念誌によれば、同校では、昭和16年2月に出された「国策ニ協力セシムル実践教育」の通告に基づき、生徒を「一年を通じて三〇日以内の日数の授業を廃して勤労作業に当らせる」と決め、8月には「学徒報国隊」が結成された。
戸板高女は、宮城(きゅうじょう)外苑奉仕作業、陸軍需品廠(じゅひんしょう)・印刷局などの勤労作業に動員された。昭和18年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」で、勤労動員はさらに強化された。凸版印刷・東洋製罐・内閣統計局・沖電気に分かれて派遣された。同年9月には、「女子挺身隊」として、卒業生たちも各工場に配属されていった。