昭和22年4月、六・三制による義務教育制度が発足した。区立小学校は、終戦前30校中、東町・飯倉(いいぐら)・三河台・愛宕・聖坂の5校が廃校となり25校が新制度のもとで出発した。
新制中学校は、愛宕・北芝・芝浜・港・朝日・城南・赤坂・新星(現青山)の区立8校のほか、正則中学校など私立の4校を委託校として設置された。
戦災により、木造建築であった芝・御田(みた)・神応(しんのう)・赤坂などの小学校は全焼して校舎がなく、鉄筋コンクリート建ての青南小学校も内部に火がはいり焼失、青山小学校も半焼していた。
昭和22年に、戦前戦後を通じて最低であった人口(第1節参照)も疎開児童の帰京、抑制されている中での転入住民の激増で、港区の就学児童・生徒は年を追うごとに爆発的に増え、区当局はその対応に悩まされた。とりあえず、小学校関係では、戦災校の児童を周辺校に分散収容し、2部授業により再開した。
その後、昭和24年には高松中学校が白金小学校内に開校、同26年に高陵中学校が南山小学校内に開校した。学校設立の経緯でも明らかなように、新制中学校校舎建築は昭和25年から同27年にかけて集中し、港区財政でもこの時期の教育予算の中で学校建築費が突出していたことが記録されている。
戦後教育でとくに注目されることは、学校給食の開始と学校保健衛生である。極端な食糧難の時代は、昭和25年ごろまで続くが、その中で昭和21年12月、文部・農林・厚生の三省次官通達により、学校給食がはじまった。港区でも直ちに対応し、各小学校において進駐軍放出食糧による給食がおこなわれ、児童の栄養不足が補われた。本格的なパン、ミルク・副食の三種給食は、昭和25年からはじまった。
一方、保健衛生活動も劣悪な生活環境のもとで、各種の伝染病が流行していた学校生活の中で不可欠なものであった。結核・トラコーマ・発疹チフス・各種皮膚病の対策に追われた。
児童の健康管理や体位向上のため、戦災復興で追われる区財政をさいて、昭和26年に静岡県沼津市に区立沼津養護学園、同29年神奈川県箱根町仙石原に旧麻布教育会所有物を借用して区立箱根ニコニコ高原学園が開設された。
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 港区地域の人口
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区内世帯数と一世帯当たり人員
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【学校教育関連施設】教育委員会関連施設概要一覧
関連資料:【くらしと教育編】第11章第1節 (1)戦後新学制の成立
関連資料:【くらしと教育編】第11章第2節(2) 開校当時の状況
関連資料:【くらしと教育編】第12章 新制中学校の校誌に現れた「座談会」