昭和26年(1951)、サンフランシスコでの講和会議で対日平和条約の調印がおこなわれ独立国家としての気運が盛りあがる日本は、終戦後実施してきた教育改革の諸施策を再検討することになった。
まず、中央行政官庁である文部省の機構について、「文部省組織令」と「文部省設置法施行規則」が定められ、その改革がおこなわれた。その中で新たに教育・学術・文化に関する基本的な事柄に関し審議し、これらの事項に関して文部大臣に建議する機関として中央教育審議会が設置された。
続いて、昭和31年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定され、終戦初期の地方教育行政のしくみが再改革された。この改革のねらいは、教育委員会と地方公共団体の議会及び長との関係を緊密化し、総合行政的傾向が強化されたことと、教育委員の公選制が廃止され、地方公共団体の長がその地方議会の同意を得て任命する制度となったことである。更に、教職員については、都道府県教育委員会に人事管理と給与負担が移されることとなった。
同31年「幼稚園教育要領」「幼稚園設置基準」が成立し、戦後、急速に増加してきた幼児の保育を振興する基礎ができた。
社会教育については、昭和24年の「社会教育法」により、国及び地方公共団体の社会教育に対する任務が明確にされた後、同25年「図書館法」、同26年「博物館法」と関連法が制定され、戦後の社会教育の基礎が固められた。同じ26年の「社会教育法の一部改正」では社会教育主事制度も復活した。
昭和42年、中央教育審議会に対する「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」の諮問と、昭和43年の社会教育審議会に対しての「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について」の諮問は、明治初年よりおよそ100年におよぶ日本近代教育の流れの中で、その発足期の明治初期、太平洋戦争直後の抜本的な改革に対比する「第三の改革」を意図したものであった。
中央教育審議会と社会教育審議会の答申は、かつての教育改革にみられる単なる学制改革や制度の改善拡張を求めるものではなく、社会的、経済的、国際的に高度の成熟期に達しつつあるわが国を支える国民の資質を養うとともに、創造的個性の伸長を目ざす教育への指針を示そうとするものであった。