区教育施策の移り変わり

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 港区は、中央教育行政機関である文部省の近くに位置するとともに、東京の中心にある教育区として、たえず先導的試行を自負しながら教育行政をすすめ、教育事業を最重点課題の一つとして、戦後40年間取り組んできた。
 昭和28年11月に発行された『港区政ニュース』には、区教育委員会発足1周年に際しての見出しで、学校教育行政の重点に、六・三制教育の整備を掲げている。
 戦災焼失の小学校校舎の復旧、新増築並びに中学校独立校舎の新増築や危険校舎の改築に意を注ぎ、昭和26年度には2部授業を解消し、中学校はこの期間までに、小学校等に間借りをしていた5校が独立校舎を持つに至ったとある。昭和20年代は、まさに校舎の整備に明け暮れた時代であった。
 例えば昭和35年版の『港区勢要覧』は、教育施策の当面の課題として、
 
  ・教育課程の改訂による特別教室の拡充、内容の充実をはかる
  ・高層アパート建築の増加による収容対策
 
をあげている。この時期に依然として、新制中学校発足による独立校舎の新築や児童・生徒増加にともなう校舎増築を続けていることがわかる。また、東京港に接する芝浦地区に大規模な都営住宅の計画があり、一部建設がはじめられているため、学校用地買収が急がれていると述べている。
 昭和40年版の『今日の港区』では、地方自治法の改正による都事務事業の区移管にふれ、区の教育施策として「よい環境による人づくり」を掲げている。40年代前期は、経済の高度成長期にあたり、港区は東京オリンピック以来、都心化の急速な進行により変動を余儀無くされる時代であった。学校教育にも当然この影響は現われ、生活指導をはじめ教育相談・健康安全教育の重視、心身障害教育や幼児教育の振興を必要とするようになった。
 社会教育についても、施設設備の拡張を図るだけではなく、幅広い活動と内容の充実が要求され、これを効果的に運営するための社会教育委員制度が設けられた。
 昭和46年版の『港区勢要覧』では、「次代をになう世代の健全な育成」を区の重点施策とし、「心身ともに健全で気品と風格にあふれた児童生徒の育成」「都市の厳しい環境の中で健康で安全な生活」を教育目標に掲げている。
 これらの目標に沿い区内に、児童館や児童公園が次々に設置され、子どもの安全な遊び場を確保する一方、校外教育施設の整備をすすめ、宿泊をともなう移動教室・夏季施設に区立小中学校児童・生徒を参加させるほか、社会教育の施設として、一般区民に利用させることで、厳しい都市環境を離れ、自然に親しむ機会を提供するという目標の具現化を図った[図1]。
 

[図1] 箱根ニコニコ高原学園(上)


[図1] 小諸高原学園(下)

 港区は昭和50年3月、「人間性の尊重」と「地方自治の確立」を基本理念として構想を決定し、基本計画を昭和53年1月決定、更に昭和56年12月に改定するとともに実施計画をたて、これの具現化に努めている。
 この基本構想を受け教育行政の重点施策は、「明るく豊かな人間性の形成」を掲げた。昭和49年度、区教育委員会事務局の組織に社会体育課が新設され社会教育施設や教育内容の多様化に反応した。当時、都内23区では最大規模を誇る港区スポーツセンターが建設され「豊かな環境づくり」の一機関となった。
 昭和60年版『みなと区政要覧』によると、昭和66年度までの港区基本計画として、
 
  ・生命と健康を守る環境の整備
  ・住民福祉の向上
  ・明るく豊かな人間性の形成
  ・地域経済の安定
  ・都市基盤の充実
 
の5本の柱を区行政の基本的方向づけの大綱として示し、教育行政の柱である「明るく豊かな人間性の形成」をふまえて、
 
  ・小・中学校教育の充実
  ・社会教育の充実
  ・文化環境の保全
 
を重点施策とした。
 更に、区教育委員会の目標として、学校教育では「ゆとりと充実の教育を」、社会教育では「学習社会の形成をめざして」をそれぞれ掲げ、「人間尊重の教育」「健康・安全教育」「生活指導・進路指導」「学習活動」の改善と充実を学校教育の努力の重点としている。
 とくに「人間尊重の教育」では、同和問題を国民的課題とし、全教育活動を見直し、あらゆる偏見や差別の発生する根源を追求し、幼児・児童・生徒・父母に対し、啓発活動に努める姿勢を示した。
 
関連資料:【文書】教育行政 港区教育委員会発足1周年
関連資料:【文書】教育行政 東京都港区教育委員会の教育目標(昭和56年度~平成5年度)