徳川家の菩提寺だった増上寺は、幕府の威光を示す象徴的な場でもあった。維新後の明治新政府は、その前時代の象徴を足掛かりにして自らの体制を構築していくことになる。
慶応4年(1868)5月、東海道を東上してきた官軍は増上寺に宿営し、旧幕府軍との上野戦争に向かった。その5カ月後の明治元年(1868)10月13日、「東京」となった江戸に天皇が行幸する。その際、初めての小休地となったのは増上寺の「方丈」にあった将軍御装束所(ごしょうぞくしょ)であった。徳川幕府の権威を上書きするような明治新政府の増上寺の利用は、次第に広大な寺中全体に及んでいく。例えば、海岸にほど近い増上寺に目を付けた海軍は、かつての学寮の多くを買い上げて水路局や兵卒官員の宿舎に充てた。
そして、各種教育関連施設の設置もまた、新政府による増上寺の施設利用の一つに挙げられる。
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (1)「仮小学第一校」の設置