わが国の初等教育は増上寺を足掛かりに始まり[図1]、また増上寺とその周辺にはさまざまな教育関連施設が集積した。
[図1] 旧跡「日本近代初等教育発祥の地」
「仮小学第一校」設立の記念碑。都営地下鉄・御成門駅前。現在の源流院は増上寺門前に移転している。筆者撮影(2018年11月)。
新政府はそれまで「蝦夷(えぞ)地」と呼ばれていた北方の地に「開拓使」を設け、その地を「北海道」と名付けた(明治2年)。明治4年、増上寺に開拓使の東京出張所が置かれ[図2]、翌明治5年には方丈すべてを買い上げて「開拓使仮学校」(のちの札幌農学校)を開設した[図3][図4]。さらに9月には「開拓使女学校」を開設した[図5]。
[図2] 芝・増上寺に置かれた開拓使東京出張所(北海道大学附属図書館所蔵)
[図3] 芝・増上寺境内の開拓使仮学校校舎(北海道大学附属図書館所蔵)
[図4] 「開拓使仮学校跡」の記念碑
都立芝公園の北端の児童遊園の一角にある。筆者撮影(2018年11月)。
[図5] 開拓使女学校のオランダ人教師たち(北海道大学附属図書館所蔵)
明治3年1月3日、神道を国教とし、皇国思想に基づく国家意識の高揚を図る「大教宣布(たいきょうせんぷ)」の詔(みことのり)が発せられる。その推進のため新政府は教部省を開設したが、国民の教化を行う「教導職」に取り立てられた神官や僧侶らを統括したのが「大教院」だった。その「大教院」は明治6年1月、麹町の元・紀州藩邸から増上寺に移転された。本尊である阿弥陀如来は撤去されて神殿が設けられ、「仮小学第一校」が置かれていた源流院は大教院の事務局となった。
増上寺中の諸施設が新政府の重要施設に利用されたのは、すでに整えられた既存の大規模な施設として転用が容易だったからであろう。徳川家のもう一つの菩提寺だった寛永寺は、慶応4年(1868)の上野戦争に巻き込まれ、寺中の施設は壊滅的な打撃を受けていたのであった。増上寺内の施設は幸いにして戦禍を免れていたが、新時代の幕開けとともに徳川家の庇護や諸大名からの支援を失った。増上寺は急速に困窮の一途をたどっていくとともに、中核となる部分は保守しつつ新政府に諸施設を譲り渡していった。最終的に、明治4年(1871)1月には最小限の敷地を除いて、そのほとんどが新政府の手に移っていった。
ところで、以上取り上げた新政府に関連した施設のみならず、私立小学校、私塾や宗教学校といった教育施設も増上寺周辺に開かれた。増上寺門前の広度院には地域の有力者による幼学所(明治6年に私立小学共栄学校)が開設され、昌泉院には漢学塾である時習義塾(慶応2年~明治6年)が設けられた。
明治10年には浄土宗の高等教育機関として、京都・知恩院に設置された宗学西部本校(現在の佛教大学の原型)とともに、増上寺には宗学東部本校(現在の大正大学の原型)が設置された。新政府主導の教化体制を担った「大教院」は神官側と僧侶側の対立から明治8年に解散し、その役割は各宗派に受け継がれることとなった。浄土宗では明治9年3月に制定された「浄土宗学制」を受け、それまでの各種教学機関を統合・発展させるかたちでこれら2校を設置した。
増上寺は、僧侶育成の点でも近代的なそれへと移り変わる舞台となっていった。