江戸朱引線と東京府

3 ~ 5 / 417ページ
 東京府が設けられたのは慶応4年・明治元年(1868)7月であるが、開設当初の東京府は旧江戸町奉行所管轄の朱引(しゅびき)線の内側になる「朱引内」(北は巣鴨・駒込、東は本所・深川、南は品川・高輪、西は四谷・牛込などに囲まれた範囲)であった。初めは町地だけであったが、明治2年11月になって、武家地や寺社地も管轄下に入った[図1]。
 明治4年11月14日、廃藩置県により東京府の周辺(朱引外と称した)に置かれた小菅・品川の各県が廃されて、相次いで東京府に編入され、明治6年までの間に現在の23区の原形が、一応成立したのであった。
 

[図1] 東京府の「朱引線」(「江戸切図総図図割」より作成)

 
 しかし、境界の変更、飛び地の処理、農地用水の利用による水争い、区域分離の不合理是正などによる管轄範囲の移動があり、また伊豆七島の移管(明治11年)、多摩三郡の移管(明治26年)があって、東京府の境界は、明治26年になって、ほぼ現在の形になった。