江戸時代末期の市街地(朱引内)と郷(ごう)村地(朱引外)の区画の線は、明治2年2月19日の太政官(だじょうかん)布達によると、
東ハ本所扇橋川筋ヲ限リ西ハ麻布赤坂四ツ谷市ヶ谷牛込ヲ限リ南ハ品川県境ヨリ高輪町裏通リ白金台町二丁目麻布本村町通リ青山ヲ限リ北ハ小石川伝通院池ノ端上野浅草寺後ヨリ橋場町ヲ限リ(略)[注釈1]
という線であった。
そして同年3月16日、朱引内の町地を50区に分けた。各区はそれぞれに「番組」と呼ばれ、江戸時代からの名主制度を廃して、番組ごとに中年寄・添年寄を選任した。ついで同年5月8日には、朱引外の郷村地も地方1番組から5番組の5区に分割した。
港区地域は、[図2]のように14番組から22番組と地方1番組に属していた。
明治4年4月5日に布告された「戸籍法」施行に対して問題になってきたのは、朱引内における武家地の荒廃であった。東京府の太政官宛上申書には、つぎのように述べられている。
麻布青山市ケ谷牛込小石川白山辺ノ市街次第ニ零落産業ヲ失及困迫候者不少右ハ土地盛衰ノ変遷ヨリ自然ト窮困相成此儘(ママ)差置候而(テ)ハ迚モ産業之自計不相立(略)
明治4年6月9日に東京府は、「朱引線」を縮少して、50区を44区に画定し直した。港区地域の15番組から22番組の山の手地区が、「朱引外」の郷村地に編入された。
明治4年12月になり[注釈2]、「戸籍法」によって、一律に戸籍を編成する趣旨と、武家地・寺社地の訴訟取次の役にあった「触頭(ふれがしら)」の廃止や、武家地・町地の称別区別も廃したことにより、新しく府内全域を6大区97小区に画定し直した(11月28日[注釈3])。港区地域の範囲はつぎの中に含まれている。
[図2] 港区地域の「番組」(『東京百年史』『新修港区史』)
第二大区 皇居の南方で、芝・高輪・金杉・麻布・三田・白金・目黒の地域
第三大区 皇居の西方で、赤坂・四谷・市ケ谷・牛込・青山・新宿の地域
明治4年から5年にかけて、小菅県ほか3県から編入された地域は、品川口、新宿口、板橋口、千住口と別称され、各大区に所属させられたが、同一の区画で統合することに困難が伴ったこともあり、明治6年3月には、全府が市街地と郷村地に分けられた。市街地は6大区70小区とし[注釈4]、郷村地は新しく第七大区から第十一大区の5大区33小区が設けられ、合わせて11大区103小区の区画が成立し、明治11年の「郡区町村編制法」の施行まで続いた。
なお、従前の中年寄・添年寄は廃されて、大区は区長、小区は戸長・副戸長となり、戸籍編成のみでなく、各年寄の扱ってきた区内住民に関する政務をも引継ぐことになった。
明治5年8月に、「学制」が公布された。「学制」は「学区制」を採用しており、全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210の小学区に分けて、各小学区に1小学校を設ける構想である。東京府は、第一大学区に属し、管下に6中学区があった。
「学制」による「学区」と、行政区画の「大区・小区」は別のものであり、学区制の基準は人口600人に対して児童数が100人と仮定して、6中学区1260校が東京府の小学校設立数であった[注釈5]。しかし、東京府は制度的にも財政的にも困難であるとして、行政区画の大・小区をもって各中・小学区に当て、府内96小区、郷村19小区に1校ずつの115校を設立するという「東京府管下中小学創立大意」を定めた。
これによると、港区地域の学区はつぎのように定められている。
第二中学区 第二大区及び品川口(後の第七大区)の一部
第三中学区 第三大区の赤坂・青山地区及び内藤新宿口(後の第八大区)の一部
初年度は、文部省直轄から府にもどされた6校を含めた18校を設立し[注釈6]、漸次増設することとした。そして江戸時代からの家、私塾の塾主を「教員講習所」において速成し、私立小学の教師として育成していく方針であった。明治12年の段階では、府下の公立小学197校に対して私立小学は1205校を数えていた。