芝・麻布・赤坂区の誕生と小学校

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 行政区画である明治2年の「番組」は、旧来の慣習的な自治体を基にしたものでなく、府民を50万人と見積り1万人を目当に割りふられたものである。明治4年の「大小区」も、各大区に16の小区をもつという機械的なものであった。したがって住民の側に十分通用する制度ではなく、また、全国的にも雑然としたものであった。
 
  旧慣ニ依ルニ町村ハ実ニ一ノ形体ヲナシ大ナルモ之ヲ削ルヘカラス小ナルモ之ヲ排スヘカラス一町一村ノ人民ハ利害相依ルコト一家一室ノ如キアルノミナラス亦財産ヲ共有シ一個人ノ権利ヲ具フルモノノ如シ(略)
 
と、明治10年の『地方官会議日誌』にあり、地方の末端行政の自治という旧来の慣習を復活させる「郡区町村編制法」が、明治11年7月に発布された。そして同年11月に東京府の行政区画は「大区小区制」を廃止し、新たに15区6郡に改編された。
 これにより芝・麻布・赤坂の3区が誕生し、第七大区一小区にあった白金村・今里村・三田村は荏原(えばら)郡に編入された。そして、翌12年の「教育令」によって、いままでの各中学区は、全く消滅し、芝・麻布・赤坂の各区ごとに全域が学区になることになった。
 港区地域の小学校設立状態は、明治6年の鞆絵(ともえ)・桜川・御田(みた)・赤坂の4校の公立小学校に対して、私立小学校は68校も設けられ、翌年には96校になった。その後公立小学校は、南海・麻布・青山・白金・桜田・南山・桜田女子・飯倉(いいぐら)・芝(棲霞(せいか)小も設立されたが、青山分校となり青山小に合併された)と順次増設され、明治12年には13校となったが、私立小学校も新設廃止を伴いながらも98校とその数はあまり変わっていなかった。
 明治12年以後の公立小学校は、芝区が鞆絵・桜川女子・御田・南海・白金・桜田・桜田女子・芝の8校、麻布区が麻布・南山・飯倉の3校、赤坂区が赤坂・青山の2校と学校数は変らず、その後、明治22年に赤坂小学校中之町分校ができ同27年に独立(現檜町(ひのきちょう)小)した以外、同35年芝区の愛宕小学校開設までの間は、公立小学校の新設はなかった。
 
関連資料:【文書】教育行政 公立学校開設並びに合併
関連資料:【学校教育関連施設】