江戸っ子から東京府民へ

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 慶応4年・明治元年(1868)7月、東京府が正式に開庁し、10月に明治天皇の東幸を、品川から芝増上寺を経て呉服橋御門まで迎えた。そのときから江戸っ子は東京府民となった。
 しかし武士階級の没落によって深刻な影響を受けたのは、武士という消費生活者を失った、商工を業とする府民であった。明治3年に、東京府が弁官に提出した移転計画の伺書には、麻布・青山の市街地は零落し、産業を失い「忽(タチマ)チ数万ノ窮民相生ジ、殆ト救ウヘカラサル事ニ立チ至ル可ク候」と、この模様をうったえている。
 明治17年に出された、芳川府知事の『市区改正意見草案』には、当時の府民の様子を、
 
 市街表面ノ家屋ハ稍(ヤヤ)体面ヲ備フルモノカ如シト雖(イエド)モ後巷ノ小屋所謂裏店住居ニ至リテハ一戸僅ニ四坪乃至五、六坪ニシテ数口ノ家人其内ニ棲息(セイソク)シ(略)
 
と述べている。
 港区地域は、江戸時代に栄えた武士の町が衰え、桑や茶の畑がふえる一方、新橋ステーションや銀座煉瓦(れんが)街など、「文明開化」の風に当たった地域でもあった。そして、大店や土蔵のある表通りの裏には長屋があり、小商人や職人、雑業層の人々と家主層との連帯のある江戸当時と同様の町並が、明治15、16年ごろには復活していたものと思われる。
 明治初期、人口構成の主体である小商人・諸職人などの収入は、恵まれたものとはいえなかった。『東京穴探』にある長屋住いの描写には「一週間ニ青魚(サバ)一疋グラヰハ喰ラヒ得ル者上等トシ」とあり、つましい生活をしていたことが、明治12年に調査された「東京における代表的職人の日当」によっても、うかがい知ることができる。
 しかし、江戸時代からの庶民の娯楽としての山王祭、門前町の縁日、芝神明の芝居、また高輪の海浜の遊び、行楽をかねた神仏めぐりなど、東京府民としての行楽的・娯楽的な遊びも、明治10年ごろから次第に盛りかえしてきた。(『港区歳時記』2・3・4)
 このころ、薩長に対する「田舎(いなか)漢(もの)」という「江戸っ子」意識が、反政府、親徳川の形になってきていたことは、佐幕的な政治論を展開した新聞の刊行となって表われてきたことからもうかがえる。『東京百年史』は、「公方(くぼう)様に代わって、天朝様のお膝元となったという彼らの優越感」と、「心の底では、山の手住民の田舎上りの官員を軽べつしつつ、自分たちは江戸っ子を引きついだ東京っ子であるという誇りの意識」があったと述べている。港区地域の人々も新時代に対して適応しつつ、「新しい東京人」「東京府民」に変容していったと思われる。