東京府は、江戸時代から寺子屋・私塾が発達しており、庶民の教育機関としての役割を果たしていた。『維新前東京市私立小学校教育法及維持取調書』(明治25年)によれば、当時の様子を「人或ハ言フ、今ト大差アルナシ」と述べていることで察せられる。
文部省は「学制」の公布に先立ち、寺子屋・私塾を一旦廃止し、改めて開業届を提出させ免許する措置をとった[注釈13]。東京府下では、78通の私学開業願と1107通の家塾開業願が提出されている。(『公文書館資料』)
「学制」では、毎年督学局へ届け出るように定めて文部省の監督するところとした。しかし、「学制」による寺子屋・私塾の処置は地方によりまちまちであり、埼玉・栃木県は家塾を全廃して別に公立小学校を設立し、茨城・神奈川県は家塾を基礎に公立小学校をおこしている。
東京府は、既存の寺子屋・私塾を育成して私立小学校に改めていくと同時に、公立小学校を漸次設立していき、児童の就学率を高めていく私家塾活用の方策をとった。これは、江戸時代からの寺子屋普及の活用と、寺子屋師匠の生活保護を考慮したためであると『東京百年史』は記している。府当局は、府庁内に小学教員講習所[注釈14]を設け、講習修了者に私立小学の開業を認めることとし、寺子屋師匠の再教育に力を入れ、文部省の方針に添う「小学教則」を実践する小学校に変容させるようにした。
各年度の『文部省年報』所収の「東京府年報」によると、明治10年(1877)には、私立小学校の児童は、公立小学校の約2倍であり、同17年でもほぼ同数であった。このように、明治初期の東京府では、私立小学校が教育の促進に大きな役割を果たしていた。
「教育令」においては、「但町村民ノ公益タルヘキ私立小学校アルトキハ別ニ公立小学校ヲ設置セサルモ妨ケナシ」(第9条)とし、翌年の改正でも、「本小学校ニ代ルヘキ私立小学校アリテ府知事県令ノ認可ヲ経タルトキハ別ニ設置セサルモ妨ケナシ」(第9条)としてあるのを受けて、引続き私立小学校の教育内容の充実を図りながら、公私を分けず教育の促進をはかった。
港区地域の私立小学校は、校主の老齢、公立小学校への吸収(飯倉(いいぐら)学校設立に際しての私立田辺小学吸収等)などによる廃校や、公立小学校に収容できない児童に対する私立小学校の新設(青山地域の私立遷橋(せんきょう)小学等)などで、私立小学校の数の変化はあまりなく、多くの児童を教育していた。しかし、『文部省第八年報』所収の「東京府下学事巡視功程」(明治13年)によれば、「陜隘(キョウアイ)ノ室家中夥(カ)多ノ生徒ヲ置」くこと、「一人ノ教師ニシテ数十或ハ数級ノ生徒ヲ教授」していることと、そして「教師ノ学力浅劣」という三大病の一つ、または二つを、著しくはその全部を備えている私立小学校があると指摘している。
このような状況に対し、東京府は、「変則小学ノ名ヲ廃シ六科ヲ具備セサルモノハ開業ヲ許サゝル旨ヲ達ス」ことにより、読書・習字・算術・地理・歴史・修身の初歩の6科をそなえさせることにした[注釈15]。読書・習字と算術だけを授けるものが多かった私立小学校では、その内容充実をめざし、東京府令に基づいて各区に私立小学校組合を結成し各私立小学校の充実に努めたが[注釈16]、それに達しない学校は次々と廃業していった。
明治15年においては、港区地域では公立小学校13校に対して、私立小学校は芝区31、麻布区11、赤坂区7の49校であり、公立小学校との内容の差は大きくなっていった。そして、代用小学校として公立小学校に代るべき学校が残っていき、「小学校令」期にむけてその数は減少していった。しかし、関東大震災までは、これらの私立小学校は東京府の教育の一端を担っていたのである。
関連資料:【文書】小学校教育 私立氷川学校設立
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