「学制」に先立って、港区地域では地元の有識者によって地域の協力のもとに郷学校ともいうべき、「区学校」が設立されていた[注釈9]。
明治2年、20番組(西久保巴町、神谷町ほか20カ町)の有志者が、飯倉4丁目瑠璃光寺内に幼学所を設けて、筆・算・素読を教えた。
明治3年になって、芝増上寺中の広度院内に、町の有志と増上寺の山主、役僧による幼学所と、22番組(赤坂田町、元赤坂町ほか)の有志者によって、赤坂裏伝馬町の自身番屋跡に習学所が設立された。
明治5年には、第二大区十小区三田台裏町薬王寺に開蒙社(かいもうしゃ)、第二大区三小区愛宕下町に育幼社、第二大区九小区三田4丁目春林寺に区学校が設立され、読・書・算の授業がなされた。そしてそれぞれの区学校では、貧家の子弟に硯(すずり)・筆・紙等を支給した記録がのこされている。
これらのことは、「算筆稽古所」の町触れとどうかかわりがあったかはよくわからないが、港区地域の有志者の教育に対する理解の深さを物語るものであろう。前記三田4丁目春林寺の区学校や、三田3丁目、芝3丁目、飯倉3丁目の私塾が、明治6年に「幼童学所」となるためにも、戸長・町年寄をはじめ地元有志の働きが大きかった。
港区地域の公立小学校設立の状況をみると、文部省直轄学校にもなった鞆絵(ともえ)学校、育幼社・開蒙社という区学校から発足した桜川[注釈17]・御田(みた)学校、習学所の生徒を受け入れて新設された赤坂学校、新設と同時に周辺の私立学校を吸収していった麻布[注釈18]・飯倉学校などさまざまな形態を示している。
これらの公立小学校は、増改築を重ねて大きくなっていったが、設立や増改築に対する資金のほとんどが地元有志の寄附によるものであったため、資金を整える苦労がなみなみでなかったことが、それぞれの学校沿革誌に記されている。
また、増上寺の塔頭(たっちゅう)広度院の区学校は私立共栄学校、三田・芝・飯倉の幼童学所は、私立の聖坂・竹芝・培根学校[注釈19]となり、公立小学校に代用される私立小学校へと発展していった。東京府から私学への資金の援助のなかった実情から、地元の住民の援護があったことと推察され、港区地域の住民の教育に対する熱意の大きかったことを示している。
関連資料:【文書】小学校教育 私立培根学校設立
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (2)住民有志による郷学(ごうがく)設立