「学制」による各中学区には、教育行政機関として「学区取締」が置かれた。就学の督促、小学校の設立維持、学費の調達等、第一線の学事を担当するなど、その権限と責任は極めて大きかった。
小学校設立のときの教員組織は、訓導(くんどう)1名、授業生2、3名であり、訓導が「主宰の者」として位置づけられていた(当時校長という職名は使われなかった)。
学監モルレー[注釈20]は、「教員ハ唯学校ノ教授ニ従事スルヲ以テ其職務」とし、学校所有物や学校保護等の責任がないと言っていることでも、学区取締の責務が重大であったことがわかる。
明治8年の学校地所無代価下渡しにおける鞆絵・桜川・赤坂学校の戸長と学区取締の連署[注釈21]、また、同9年の桜田・南山学校の設立における官費教員要請や設立願への連署などに、学区取締のはたらきがうかがえる。
これにも増して学区取締には、就学督励の大きな役目があった。「学齢ヲ調査シ就学ヲ督励シ其就不就学ノ数ヲ毎定期試験ノ后別冊ニ製シ開申スル事」(事務心得)がそれである。港区地域での記録は見当たらないが、毎年の『文部省年報』所収の「東京府年報」に載せられた就・不就学児数は、学区取締の報告を基にしていたことは確かである。
個々の学校においては、「学校世話掛」の働きが大きな存在であった。授業料の収入、校具諸費の徴集及び校舎・地所の保護など直接学校にかかわりある校務を、学区取締に協力して処理した。学監モルレーは、『文部省第六年報』(明治11年)に「南海学校ハ二十四名南山学校ハ六十名」と報じ、「区内学校ニ関係セルモノ、夥多(カタ)ナルハ真ニ驚クヘクシテ又賀スヘキ事」と、その功を認めている。
明治12年、「教育令」の公布により学区取締は廃止され、これに代って地域住民の選挙によって選ばれた「学務委員」が仕事を引き継いだ。しかし学区取締とは異なり、芝、麻布、赤坂の各区の機関としての位置づけになり、やがて明治18年8月の「教育令」の再改正において経費節減のため廃され、各区の区長がその職務を引継ぐことになった。その後学務委員が復活したのは、明治23年公布の「小学校令」改正においてであった。
関連資料:【文書】教育行政 学校地払下
関連資料:【文書】教職員 鞆絵学校訓導の心得
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 芝 麻布 赤坂歴代区長