■明治9年

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第二中学区二十二番公立小学白金学校[注釈25](現港区立白金小学校)
     学校位置 第七大区一小区白金上三光町14番地
    (現在地) 東京都港区白金台1丁目4番26号
 
  明治九年一月十五日荏原郡白金村(現時ノ三光町)故男爵大鳥圭助邸長屋四十三坪半ヲ仮用シテ本校ヲ創設ス児童数三十余名 是ヨリ先旧戸長多田恭恪氏当地ニ小学校ノ設置ナキヲ慨嘆セラレ尽力スル所アリ戸長三尾久右エ門氏有志者蜷川直親氏岸田弥右エ門氏土岐源兵エ氏内藤多少氏等ノ協力シテ設置ノ方法ヲ議セシガ適当ノ家屋ナキヲ以テ大鳥氏ニ諮リシニ其志ヲ嘉賞セラレ無代貨附ヲナシ且若干円ヲ寄附セラレタルヲ以テ有志者ハ大ニ力ヲ得テ東奔西走数百円ノ寄附金ヲ募集シ玆ニ一月十五日ヲ卜シ須山雅頌氏ヲ校長トシ開校ノ典ヲ挙グルニ至レリ 明治十六年四月郡区制度ノ施行ニヨリ本校ノ経費ハ荏(エ)原郡芝両郡区協議ノ結果荏原郡ノミノ負担トナル 明治二十二年五月三十一日白金村ハ芝区ニ編入セラレ白金三光町ト改正セラレタルヲ以テ本校ヲ芝区ニ引渡スベキ旨元白金村戸長役場ヨリ通達セラル 爾(ジ)来荏原郡ノ管轄ヲ脱シ芝区ノ管理トナル(『学校沿革誌』)
 
第二中学区二十六番公立小学櫻田学校(現港区立桜田小学校)
     学校位置 第二大区二小区新幸町4・5番地
    (現在地) 東京都港区新橋3丁目16番3号
 
  現第一ホテル付近に設立された。敷地三三四坪、建坪一〇四坪、木造二階建の校舎はよろい張り、あずき色のペンキが塗られ、当時としては近代的な建物であった。設立にあたっては、地元有志三千八百三十一名によって寄付金、三千八百五十七円九十六銭五毛が集められ、建築費にあてられた。この中には、有栖川宮家を始め大久保利通、大山巌などの、明治の元勲の名が多く見られる。児童数は男子のみ四十九名であった。(『創立百周年記念誌』)
 
第二中学区二十七番公立小学南山学校(現港区立南山小学校)
     学校位置 第二大区十二小区麻布宮村町7番地
    (現在地) 東京都港区元麻布3丁目8番15号
 
  明治七年十月第二大区十二小区戸長寺本与左衛門上書シテ宮村町七番地ノ内坂乙吉十川義実中村丈助三島吉高四人ノ借地四百五十七坪ノ地ヲ公立小学校敷地トシテ下渡サレンコトヲ請フ 同年十二月右四人ト相議シ此儀見積代価ヲ上申シテ遂ニ許可ヲ得タリ即チ本校現今ノ敷地是レナリ 明治九年六月第二大区十二小区学区取締岩崎勝与柿内嘉雄福島正茂松本正次郎并ニ戸長箕輪光晁書記近藤新加藤忠助村木義方河野嘉平内藤鉄蔵等連署シテ公立小学ノ設立ヲ東京府権知事楠正隆ニ請ヒ許可ヲ得タリ 中川隆玄磯信義ノ二校主自校ノ生徒ヲ率ヒテ本校教員ニ任セラレンコトヲ請フ 十二月十三日戸長来ル十九日ヲ以テ開校スベキコトヲ権知事ニ報ス爾後校名ヲ第二中学区第二十七番公立南山小学ト云フ 十二月十九日開校式ヲ行フ 明治十年二月当時近傍私立小学校尚ホ盛ニシテ其数亦頗ル多シ皆公立校ノ信用尚ホ未タ厚カラザルニ乗シ我田ニ水ヲ引カントス当路者ノ苦心亦想フベキナリ(『学校沿革誌』)
 
第三中学区二十八番公立小学棲霞(せいか)学校
     学校位置 第八大区一小区青山南町6丁目63番地
 
  明治九年十月十三日開設認可、十一月一日に開校、翌十年に青山学校分校となり、後に青山学校に合併された。(文部省第四・五年報所収『東京府年報』)
 
関連資料:【文書】教育行政 公立学校開設並びに合併
関連資料:【学校教育関連施設】