私塾・家塾と私立小学校

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[図7]は、東京都公文書館にある私・家塾の開業届にのこされている、「学制」公布以前に開業していた市街地の私・家塾分布図である(小木新造著『東亰(とうけい)時代』)。日本橋・両国・深川にかけての、いわゆる下町に密集していることがわかる。港区地域では、この中で約5パーセント強の私・家塾が開業しており、明治6年の調べではその大部分が私立小学校になっている。
 

[図7] 東京における家塾普及状況(『東亰時代』小木新造より作成)

 新橋から品川にかけての街道筋、芝増上寺周辺の愛宕・飯倉地区、赤坂一ツ木にかけての分布から、港区地域の住宅密集地帯がここにあったといってよいであろう。公立小学校が、これらの地域に「学制」期から7年間に13校が逐次設立されていく間、この私立小学校の役割は児童の就学に対して大きな働きをもっていた。
 「学制」期、港区地域に90余の私立小学校があったことは、公立小学校が少なかっただけではなく、父祖伝来の師弟関係や教育費負担の軽さとともに、丁稚(でっち)、徒弟という10歳前後で職業を仕込まれる江戸時代からの風習から抜けきれず、公立の8年制の学則より下等小学のみの4年前後の就学で済む私立小学校の方が、住民の意に添うものであった。この、「近傍私立小学校尚ホ盛ニシテ其数頗ル多ク」あり、「公立校ノ信用尚ホ厚カラサルニ乗シ我田ニ水ヲ引ク」という、南山小学校の『学校沿革誌』にある状況も、見過ごすことのできない当時の状態であった。
 港区地域の私・家塾で、私立小学校の外に小学校卒業後に進む、私立の中学校ともいうべき私塾が存在していた。英語学、仏語学、測量学、数学、土木学等の専門の学問を授ける私塾である。
 これらの私塾は、専門の1・2科を授ける変則の中学校ともいえるもので、府内市街地にあった約2割が本区の愛宕地区に集まっていた。これは当時としての中等教育を行う場として、港区地域が大きな働きをもっていたといえよう。私塾の中には、福澤諭吉の慶応義塾、近藤真琴の攻玉塾(こうぎょくじゅく)、津田仙の学農社などがあり、慶応義塾での出版物や三田演説会などは、文明開化に対して大きな功績を果たしている。
 また、女子教育のための女学校も、府内14校中4校が、この愛宕地区に存在していた。
 
関連資料:【文書】教育行政 明治初期の家塾と私立学校
関連資料:【文書】小学校教育 私立氷川学校設立
関連資料:【文書】小学校教育 私立鳥羽学校設立