「学制」における生徒の進級は、半年ごとの前後期試験の合格によるものであって、今のような学年進級制ではなかった。試験は、「小学教則」の実施結果を確かめ、及落を決めるもので、督学局の承認のもと府吏員、学区取締、戸長などの立会の上、実施されるという厳しいものであった。
東京府は、明治12年(1879)の「教育令」公布に先だち、東京府の「小学教則」(明治11年4月)を公布し、「小学試験法」を改正し、新しい教育行政の動きに対処していた。そして、「毎級授業ノ法方((ママ))ヲ細記」した「小学授業法」をこの教則によって定め、授業法の確立に努めた。これには、取り扱う教材と具体的な指導方法が明記されており、どの学校でも共通の指導法がもたれるようにしたものになっていた。それに伴い、試験法も内容・採点方法が細かく定められ、いっそう厳しいものとなっていた。
明治12年3月、これまでの「小学試験法」を廃し、「公立小学試験規則」による新しい試験法を施行した。これまでの「公立小学試験掛」を廃し、各校の教頭(これまでの首座教員)によって選挙された教頭が、相互に出張しあって試験掛となり、定期試験を行うこととした。
教則の実施のため、授業法の確立、小試験、定期試験、大試験、集合試験などによる成績の確かめなどによって徹底を図ったが、東京府下の実際は、「学事巡視功程」(学監モルレー『東京府下巡視申報』明治11年)によると、私立学校においては学校環境の不備・教師の指導力の不足が指摘され、また公立学校は、私立より「雲泥ノ隔リ」があるとされながらも、なお、「首座教員」の指導力・教材・教具の不備などがあって、その任に当たる者を「鼓舞誘導シ深ク注意」する必要があると述べられているように、まだ十分な効果は得られていなかった。
一方東京府は、明治10年に、教員資格の大改革ともいうべき「教員試験法」を断行し[注釈26]、師範(しはん)学校卒業生か、それと同等の力のある教師によって授業が進められるように、教員の資質・程度を高めた。また、府師範学校の1期速成生が中堅教師として配され、公立小学校の学習指導に安定さが増してはきていたのである。
東京府は、明治15年に初・中等科各3年、高等科2年の「小学校教則」を通達し[注釈27]、試験法を改めて「小学試業規則」を定めた[注釈28]。そして、この試験をもとに、今までの尋常(じんじょう)科6年制を初等・中等に該当する級に当てはめ、学級の編成を行っている。この規則でも、教頭が交代し合って試業を執行することとなり、教育内容の学校による管理に一歩近づいたものになった。しかし、「試業規則ノ施行 公立小学校ニ於テハ教則ト共ニ並行シテ漸時効果ヲ呈スル」ようになったが、「私立小学校ニ於テハ……未タ観ル可キノ域ニ達セス」と『文部省第一一年報』所収の「東京府年報」(明治16年)が報じているように、公私の教育の内容の差は大きくなっていた。その後明治19年の「小学校令」により、文部省が示した「学科及其程度」に基づいて、東京府は「小学校ノ学科及其程度実施方法」を定めた。これには、修身、読書作文、習字、地理歴史、理科に教科書が配当され、教授内容はおさえられたが、明治11年の「小学教授法」の域は出なかったようである。
芝・麻布・赤坂区の公立小学校では、教頭による試験管理が行われ、試験の実際が南山・麻布・白金小学校の学校沿革誌に記されており、文部省や東京府の方針に従って、試験による及落の判定が続けられた。この試験制度は、明治23年の「小学校令」が改正される明治32年まで行われている。
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