東京府は、明治6年からの公立小学校115校設立に対し、文部省の委託金を最初の18校設立に分配し、授業料は積立てて新設校設立にむける方策をとった。
港区地域における13校の設立理由をみても、また増改築による校舎拡充についても、地元有志の援助活動に並々ならぬ苦労があったことを知ることができる。しかし、学校維持については、桜田男女両校の設立及び維持について『芝区誌』が「唯一時新築ヲ以テ集メタル金額ノミヲ以テ永久保存ノ目途ニモ之ナク」と述べているように、どの学校も学校維持に対する対策に苦心した様子が学校沿革誌などに記録されている。
当時授業料は、下等小学で75銭、50銭、30銭の三つに分かれ、家庭の経済力に合わせ納めることになっていた。しかし、この規定をそのまま実施することは、地方によって困難であった。東京府の教育予算は、この授業料と文部省補助金、府の蓄積金の三つがほぼ同額で、そのほとんどを占めていた。授業料の納められない者は、「事由ヲ書面ニ記載セシメ之ニ地主ノ奥印ヲ捺サシメ」て免除されるみちがとられていた。南山小学校の記録では、授業料は1人平均約20銭前後(明治10年ごろ)であり、他校も同じ傾向であったようである。これは学校の支出額に満たず、麻布小学校でも、「授業料ヲ以テ歳費ヲ支出シテ余アルニ至」るのは、明治24年以降であった。
その間の学校維持は、主に学校世話掛が仕事の責務を負っていた。授業料の徴集から、校費の出納の総てを掌(つかさど)り、書籍・器具を管理していた。そして「将来ノ維持法ヲ講スルタメ東奔西走シ」(鞆絵(ともえ)・桜川小)、また、聞小間割(貸地料金1円を以て一小間とし、一小間に5銭以下を課す)の法を地元に賦課する(南山・桜田小)など、その労苦の多かったことが記録されている。
明治11年、15区の成立とともに文部省や東京府の補助金は節減され、各区協議費によって学校費が賄(まかな)われることになり、芝区の教育費は予算総額の84パーセントを占めていた(『芝区誌』明治15年の項)。当時の財政緊縮政策の中で、区の教育に対する対応の一端を見ることができよう。
明治19年、「小学校令」の「父母後見人等ハ小学校ノ経費ニ充ツル為メ其ノ児童ノ授業料ヲ支弁スヘキモノ」を受けて、授業料の徴集改訂となり、そのため、芝小学校では34名の退学者が出たことが学校沿革誌に記録されている。前に記した麻布小学校の授業料増加のように、授業料での学校維持の比重は、明治24年にかけてむしろ重くなっていったようである。
しかし、この授業料の重みに耐え得るには、芝小学校の退学者数の増加という現象にも表われたように、当時の区民の経済力は、まだまだ豊かなものではなかった。当時の就学率は芝・麻布・赤坂区がともに50パーセント強(明治20年)であった。
関連資料:【文書】教育行政 小学校授業料