東京府は、明治10年に不就学児の救済と商業の職についている者の職業適応のため、6校の「商業夜学校」を公立の小学校に附設した(港区地域は、桜田学校に設置された)[注釈29]。
「郡区町村編制法」の施行によって、明治11年に15区が誕生した翌年の7月に、商業夜学校は府立の「庶民夜学校」となり、各区に1校の15校が設けられた。芝区は桜川学校、麻布区は飯倉(いいぐら)学校、赤坂区は赤坂学校に設置され[注釈30]、商業・工業の2科に発展をみせている。これは実現のおくれていた実業(産業)教育の芽生えでもあった。
府立の庶民夜学校は、東京府の財政緊縮政策によって、明治14年に廃されたが、港区地域は各区がそれを引き継いで、芝区は鞆絵・桜川・南海[注釈31]、麻布区は麻布・南山・飯倉、赤坂区は赤坂の各小学校に附属の庶民夜学校として存続していった[注釈32]。そして、明治19年の「小学校令」の前後まで続いていたようである。
夜学校は、明治40年代になって「市立尋常夜学校」として復活している。
関連資料:【文書】小学校教育 麻布区公立小学校附属夜学校
関連資料:【文書】小学校教育 元庶民夜学校の書籍及び器械の拝借