「学制」までの寺子屋・私塾

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 江戸が東京となり、東京府が置かれると早々に、府知事は、学校設立の必要性を各名主に伝えている。港区地域においては、後述の区学校の設立とともに寺子屋・私塾が多く再開されて活気をとりもどしている。幕末からあった寺子屋・私塾のうち、明治4年(1871)までに廃止したものは、推定各5、その他は継続して「学制」の施行された当時なお存続していたのみならず、[図1][図2]のように明治に入ってからも寺子屋は11、私塾は6カ所も開設されていた。(明治初期寺子屋私塾表、旧『港区教育史』下巻684~687ページ資料参照)[注釈1]
 

[図1] 明治元年以後開設された寺子屋(『港区史』)

 

[図2] 明治元年以後開設された私塾(『港区史』)

 
 これらの多くは、「学制」発足後、私立小学の認可を得るなど、初期の初等教育を発展させる重要な役割を果たした。
 当時の私塾のうち、福澤諭吉の慶応義塾が、当初から現在まで続き、初等・中等・高等教育の雄となって、多くの人材を輩出していることはよく知られている。
 また、慶応義塾と攻玉社(こうぎょくしゃ)(設立者は近藤真琴)の発生地である芝新銭座には江川塾があった。天保13年(1842)江川太郎左衛門が幕府の許可を得て開いた砲術教授の学校であったが、没後は蘭学塾として存在していた。しかし、明治初年には閉塾となり、その年、新銭座には慶応義塾が移転して来たが、同4年になって三田に移り、同年攻玉塾が新銭座の慶応義塾跡に移転、港区地域の私塾開設を勢いづけた。
 『赤坂区史』には、赤坂表町豊川稲荷付近に有馬家経営の英語初歩を教える報国学校[注釈2]、赤坂中之町6番地戸田邸内に木村一歩が万国史や米政学、経済学、物理学等を教える鞭駘(べんたい)義塾、赤坂福吉町に井上良一・本間英一郎が英語、数学、測量などを教える福吉舎等があったと記されている。
関連資料:【くらしと教育編】第2章第1節 (3)港区域の寺子屋―武家地と町人地―