寺子屋・私塾の役割

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明治初年の港区地域の寺子屋数をみると、廃絶したものを除いて約50弱、その6割が芝地区にあった。寺子屋・私塾は、大名屋敷の多かった赤坂、麻布地区に比べて、街道筋に町屋の多かった当時の人口分布に対応している[図3][図4]。
 

[図3] 港区地域の寺子屋・私塾(『文部省年報』により作図)


[図4] 寺子屋・私塾の教科書(『目で見る教育のあゆみ』文部省)

 当時の教育は、このような自然発生的な寺子屋・私塾により江戸時代から続く庶民の教育と、町の有力者や有志による区学校(郷(ごう)学校)の設立による、町の人々の協力で行う教育とが共存して行われていた。
 当時の庶民の生活は困窮にみまわれており、生活困窮者に対する配慮が、私塾や寺子屋、区学校などそれぞれにみられる。いずれも、「学制」公布以前の、日常生活に役立つ庶民教育の普及について、大きな役割を果たし、その後の教育の発展の基礎となっていったといえよう(旧『港区教育史』下巻689ページ資料参照)。