区学校の設立

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 明治3年(1870)の「中小学規則」による、公立の6小学校の設置に先立って、慶応4年・明治元年(1868・この年の9月明治と改元)7月、江戸府が東京府となった直後に、府は名主や組々の世話役にあてて「算筆稽古(けいこ)所」の設置を促す町触れを出している[図5]。
 

[図5] 算筆稽古所触書(東京都公文書館所蔵)

 この達しによれば、
 
  全算筆等専ラ稽古可為致年頃ニ至候テモ父兄親族ノ者共等困窮ニ迫リ教導不相立故之儀
 
とある。明治維新という兵乱後の江戸市中は、破壊は免れたものの、多くの人々が困窮に迫られ、とても子弟の教育どころではなかった。そこで、庶民や子供たちに対して、
 
  元来市民共幼年ヨリ教育方不宜成長ニ随ヒ放蕩無頼(ホウトウブライ)ニ相成果ハ住所ヲ離レ法禁ヲ犯シ重科ニ被処候者不少
 
と指摘して、幼児よりの学校教育の重要さを示し、算筆稽古所を方々に設けて学習させるよう奨励したのである。教育を受けた子弟が成長すれば、東京府の民情も安定し、国益にもなるので町役人も町の人々も厚く世話をするようにと求めている。明治2年の「府県施政順序」の中で、「小学校ヲ設クル事」と掲げた新政府の施策に先がけての「算筆稽古所」の奨励であった。
 この「町触(まちぶれ)」に答えて、本区の20番組(西久保巴町・八幡町・広町・芝栄町・愛宕町・飯倉狸穴町・片町・麻布永坂町・新網町・神谷町・飯倉町等20カ町)が、幼学所を設立している。
 この幼学所が、明らかにお触れに答えていることが、明治5年2月に、東京府へ提出した次の上申書によってわかる。
 
  区内元二十番組ト唱候砌四ヶ年以前已年(明治二年)中有志之者共集金ヲ以貧家之者共扶助筋並之子弟之教導ハ飯倉四丁目瑠璃(ルリ)光寺ニ幼学所取設机硯筆紙墨其他皆具ニ相与エ筆算素読為学来候処集金ニテハ月々行届不申候間去午年(明治三年)十一月中其段申上月々金十五円宛区内惣小間割ヲ以来ル酉年(明治六年)十一月迄三ヶ年之間出金致度旨蒙御(コウムリ)許可世話罷(マカリ)在候処貧家之扶助筋ハ薄ク相成候ニ付去来(明治四年)七月中飯倉町三丁目横町エ新規幼学所補理当今二百人近之人員日々教導仕候(以下略)
 
 この幼学所では筆算・素読の教授をしていたが、生活の苦しい家庭への扶助は薄くなったのに就学する子どもが増加し、新たに幼学所を整えて200人近くの子どもを収容する学校に発展していた様子がうかがわれる。そして、そのために「月々金十五円宛区内惣小間割ヲ以、来ル酉年十一月迄三ヶ年之間出金致度」と、明治3年11月から3年間の集金許可を得て実施してきて、世話掛を中心に地域有志の協力により、一般家庭、生活困窮家庭を問わず、区内子弟の教育に尽力してきた様子をみることができる。
 明治3年には、芝増上寺地内の広度院内において、水野諦玄が町々の有志、増上寺の山主・役僧らと謀り、幼学所を設置し、無月謝で読書・算術・習字の3科目を教授し、かたわら毎月の16日には、倫理の道を講じたという。この幼学所はその後、私立共栄尋常(じんじょう)小学校となり、明治20年代には芝区の代用小学校になっている。
 また、赤坂裏伝馬町2丁目所在の自身番屋跡でも、地域(22番組)有志者の企画によって習学所が建てられ、氷川神社の元神官斉藤実頴が、読み・書き・算術を教えている。明治6年、第三中学区三番小学として、茜陵(せんりょう)(赤坂)学校が設立されたとき、この習学所の児童全部を受け入れて開校式を行った。
 この二つの例は、算筆稽古所設立の町触れとの関係の資料が見当らないが、個人の寺子屋や私塾とちがって地域の力で学校を設立し維持していこうとする意欲が、地区の有識者の中にあり、読書算の教育が、これからの市民生活の上で必要であるとの市民意識が高まっていたことを示すものであろう。
 明治4年、5年にかけても、地域有志による地域の学校設立の動きは続けられている。
 明治4年、行政区は大区・小区制になり、港区地域は第二大区と第三大区、第七大区、第八大区の各一部から構成され、年寄制は戸長制になり、各小区ごとに戸長・副戸長が任命された。この時期は、地域有志と戸長の連名によって開学願が出されている。
 学校設立の資金が区内住民の資金と有志の寄附金により、区住民の代表である戸長名によって願い出されていることから、それは準公立すなわち郷(ごう)学校の性格を持つものであり、各区による設立から「区学校」といわれているものである。
 港区地域の場合、新しく設立されたもの(第二大区十小区の開蒙社(かいもうしゃ)、第二大区八小区の小学社、第二大区五小区の増上寺内幼学所など)と、寺子屋を塾主の理解のもとに活用したもの(第二大区七小区の区学所、培其根(ばいきこん)等)があり、「学制」公布後、公立小学校へ引直(ひきなお)し移管されたもの(開蒙社が御田(みた)学校、小学社が南海学校、育幼社が桜川学校等)や、私立小学校として発展したもの(培其根が培根学校、竜海堂が竹芝学校、幼学所が共栄学校等)など、さまざまな形態をみせながら、東京府の公立・私立の小学校併置という教育行政のもとに、港区地域における初等教育の基盤を作っていった。
 
関連資料:【文書】小学校教育 桜川学校設立
関連資料:【文書】小学校教育 私立培根学校設立
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (2)住民有志による郷学(ごうがく)設立