幼童学所の設立

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 明治6年2月に、東京府は前年文部省より布達された「学制」の施行に伴い、「東京府管下中小学創立大意」を立案した。その中の「当時迄在来之学舎ハ其侭(ソノママ)相用」[注釈4]と定めた方針に基づいて、明治6年早々学制以前に設立されている区(郷)学校へ内達し、文例を示して「区内幼童学所設立之願」[図6]を提出させている。
 

[図6] 区内幼童学所設立願[注釈5] (東京都公文書館所蔵)

 

[図7] 港区地域の幼童学所

 
 港区地域の区学校も、[図7]のような幼童学所となっている。
 すでに明治2~5年ころから発足していた幼学所や区学校は、「学制」公布後、私学、私塾の開業願の様式に従い、学科・教則・塾則なども、東京府の小学校設立の趣旨に合わせて整え、あらためて設置願を提出したものと思われる。明治6年は、鞆絵(ともえ)・御田・桜川・赤坂の諸校の開校があった年である。三田4丁目の春林寺に設けられた幼童学所は、明治5年に設立された区(郷)学校であり、後に第二中学区七番小学南海学校になる[注釈6]。三田3丁目木村宅に設けられた幼童学所は、第二中学区九番小学聖坂学校となり、本芝3丁目の今井宅は、第二中学区十番小学竹芝学校に発展している。また、飯倉町3丁目の「区内貧民学校」は、明治20年代に麻布区の代用小学校培根尋常小学校となり、南海学校は公立小学校に、他は私立小学校となっている。そして、東京府内にあった13の幼童学所のうち、6校が公立小学に引直されている。
 
関連資料:【文書】教育行政 幼童学所の設立
関連資料:【学校教育関連施設】