小学校の設置準備

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 明治新政府は、江戸を東京府とし、慶応4年(1868)9月8日、元号を明治と改め、維新の諸改革とともに教育制度の樹立に取りかかった。小学校に関しては、明治2年(1869)に「府県施政順序」を示し、設置を命じている。また、明治3年2月には「大学規則」「中小学規則」が定められた。東京府はこれを受け、明治3年4月、小学校設置の具体的計画を太政官(だじょうかん)に伺い出ている(倉沢剛『小学校の歴史』3参照)。
 太政官は、大蔵省や当時文部省的役割ももっていた大学からの回答を検討のうえ、東京府に伺いの通りするように指令し、東京府は6月8日の日付をもって次のように6小学校を開校した。
 
  兼テ御布告ノ通小学開業相成候間左ノ日割ノ通相心得幼年生徒有志ノ輩朝五ツ時ヨリ出席可致候事
   六月十二日     第一校 芝増上寺地中 源流院
   同 十三日     第二校 市ヶ谷    洞雲寺
   同 十七日     第三校 牛込     万昌院
   同 十九日     第四校 本郷     本妙寺
   同 二十三日    第五校 浅草     西福寺
   同 二十八日    第六校 深川森下町  長慶寺
  右之通相心得机硯箱弁当持参ノ事
 
 太政官は、6月の正式開校に先立ち、明治3年3月に、この6小学校を仮小学として決定していた[注釈7]。この「仮小学第一校」が芝増上寺地中源流院に設置された、現港区立鞆絵(ともえ)小学校の前身である。
 なお、小学校開校と時を同じくして、府は「東京府中小学規則」を定めている。政府の出した「中小学規則」が大綱を示したに止まるものなので、より具体的な規定を示したものであった。この「小学規則」は、仮小学第一校の「仮小学規則」の内容とほぼ同じといってよい。
 明治4年7月、政府は教育行政の役割を果たしていた大学を廃し、文部省を設けて「学制」の制定と、その実現を図ることにした。これと同時に[注釈8]、文部省は東京府の設置した6小学校を直轄校にするために太政官に次の伺いを提出している。
 
  此度天下一般ノ教育当省へ御委任被仰付候上ハ当省ニ於テ先ツ一定ノ学則ヲ取極メ実効ヲ表シ推シテ府県諸地方ノ学務モ異同無之様改正可致見込ニ候処今般東京府ト遂協議同府ニテ従前取立候中小学校当省へ受取此中小学校ヲ改正シ其比例定則ヲ以テ各府県ヘモ施行可仕目的相立度(略)
 
 一定の「学則」を取りきめ、その実効を基にして、全国実施にふみきろうと考えたのである。
 明治4年12月23日に、文部省直轄の実験校を発足させるとして、文部省は次のように布達した。この達しには、これからの小学校政策の基準となるべきものが込められていることに注目させられる。
 先ず初めに「人々其業ニ安ンシ其家ヲ保ツ」ために学校が必要であるという個人の保身のための教育を考えていることであり、「書算筆ノ三科」という庶民教育の立場に立っていることである。
 次に、「素ト限リ有ルノ公費ヲ以テ限リ無キノ人民ニ応ス」ることはできないので、毎月授業料を納める公立学校を考えたことである。そして、誰でもが望めば入学できるという「四民平等」の立場をとった教育政策であった。しかし、当時は高額の書籍持参と授業料の徴収では、ある程度の経済力を持つ家庭の子弟しか入学できなかったと思われる。
 この文部省の実施した教育の課程が、どう生かされたかは不明である。文部省としては、「教則」制定とともに、それを教える教師の育成がより急務と感じたのであろう、師範(しはん)学校による教師養成にも力を注いでいくようになっていった。
 小学校がどのように運営されたか「東京府中小学規則」のなかの「校中定規」と「校中職掌」によって、うかがうことができる。
 当初の訓導(くんどう)は今の校長に当たり、句読授(くとうじゅ)は教師である。6舎は6教室であって各教室に担任1人と、優秀生徒の舎頭がいて、学級の学習指導と生活指導を行い、学級の年上者が5人グループの学習や生活のめんどうをみるというようになっていた。最初に作られた教育計画としては、全国の府県の注目する所であったと思われる。
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (1)「仮小学第一校」の設置