明治5年(1872)8月の「学制」公布を受けて、東京府は「東京府管下中小学創立大意」を、明治6年2月に立案している。
「学制」では、全国を八大学区(東京府は第一大学区に属す)に分け、各大学区に1大学を設置し、各大学区は32の中学区を設け、各中学区に1中学を置き、1中学区を210の小学区に分割して、各小学区に1小学校を設立する構想になっていた。
東京府は、この「大意」において行政区を基にして次の6中学区を定めた。
第一条 管下ヲ分ツテ六中学区トス
第一中学区 第一大区 此人員十七万千五百九十人
第二中学区 第二大区及品川口郷村四区属此 此人員十二万六百二十三人
第三中学区 第三大区及内藤新宿口八区属此 此人員十万六千五百五十四人
第四中学区 第四大区及板橋口郷村一区属此 此人員八万九千六百七十二人
第五中学区 第五大区及千住口郷村三区属此 此人員十六万七千八百四十九人
第六中学区 第六大区及葛飾郡三区属此 此人員十三万八千五百四十人
総計六中学区 総人員七十九万四千八百二十八人
第一大学区に設けられた督学局の指示に従って、小学区を1023に分画したが、制度的にも財政的にも困難であるとして行政区画の小区に各1校の115校をめざすこととした。
そして次のように、各大小区の区戸長に伝えている。
太政(ダジョウ)官壬申第二百十四号御布告之御旨趣ニ基キ此度小学起立之方法相定候間条則ニ照準シ府下毎区ニ一小学ヲ建幼童之子第ハ男女之別ナク一般ニ従学セシメ候様致シ度事ニ候尤本文被仰出之通学問ハ其身之財本ヲ貯へ産ヲ治メ生ヲ遂(トグ)ル之基タルヲ以テ学事ニ関スル費用ハ其区毎之民費タルヘキハ勿論ニ候得共開学之始ニ付当分学区御扶助之為メ人頭九厘之割ヲ以官金下賜候間区々申合便宜ニ従ヒ学舎ヲ取建子第ヲシテ必ス学ニ就カシメ候様可致事
但毎区一校宛取建候儀一時ニハ難行届且学校之趣モ了解致兼可申ニ付差向扶助金ヲ本トシ旧六小学取交各大区ニ三校以上取設候条男女トモ六歳以上最寄小学へ従学為致可申尤当分私学家塾へ通学致シ候トモ可為勝手事
小学校の具体的な設立計画を立てた東京府は、第一大学区督学局に伺いをたて、認可を得ている。これによれば、第二大区の育幼舎(桜川小の前身)、第五大区の習成舎、第六大区の有志設立による11舎を小学校に改制したのを合わせ、約40校の設立が可能であるとしている。そして、各小区ごとに1校ずつ設立するとしながら、それも一時にはできないと、文部省直轄となった既設の6小学校を含めて、各大区に3校ずつ、さし当たり次の18校の設置から取りかかることにした。
差向十八校取立仕法
第一大区 三ケ所新規取立
第二大区 一ケ所ハ小学第一校(鞆絵小)依旧
二ケ所新規(桜川小、御田小)
第三大区 二ケ所ハ小学第二校、第三校依旧
一ケ所新規(赤坂小)
第四大区 一ケ所ハ小学第四校依旧、二ケ所新規
第五大区 一ケ所ハ小学第五校依旧、二ケ所新規
第六大区 一ケ所ハ小学第六校依旧、二ケ所新規
東京府は、当分私学家塾へ通学することも勝手であることを認めている。このことは、東京府の教育行政が、私立学校の存続を認め、公立学校との両立によって「小学教則」の実現をめざしたものであることを示している。