[図8] 鞆絵学校設立伺(東京都公文書館所蔵)
第一番小学の教則校則等に準じて、二・三番校以下の設立伺が出されている。
[図9] 桜川学校設立伺[注釈9](東京都公文書館所蔵)
[図10] 御田学校設立伺(東京都公文書館所蔵)
明治6年中に設立された港区地域の小学校は、第二大区では、増上寺地中源流院に設けられた小学第一校の鞆絵(ともえ)学校[図8]、芝愛宕下4丁目旧木下侯跡地に創立された育幼社を改めた桜川学校[図9]、三田台町薬王寺に開校した開蒙社(かいもうしゃ)(区学校)を引直(ひきなお)した御田(みた)学校[図10]の3校と、第三大区の習学所の児童を合わせて、赤坂一ツ木町旧幕臣井上左大夫屋敷跡地に建設された茜陵(せんりょう)(赤坂)学校[図11]の計4校である。そして、明治12年までに南海[図12]・麻布[図13]・青山・白金[図14]・桜田[図15]・南山[図16]・棲霞(せいか)[図15]・桜田女子[図17]・飯倉(いいぐら)[図15]・芝[図15]と14校が設立された。
東京府は、各中学区ごとに、公立、私立を通じて校名に番号をつけてきたが、明治7年8月、文部省は、「学校名称之儀区々相成候テハ不都合」として、次の3種別の学校名称を布達した。
官立学校 当省定額金ヲ以テ設立シ直チニ管轄スルモノ
公立学校 地方学区ノ民費ヲ以テ設立保護スル者又ハ当省小学委托金ノ額ヲ以テ扶助スルモノ等
私立学校 一人或ハ幾人ノ私財ヲ以テ設立スルモノ
[図11] 茜陵(赤坂)学校設立伺[注釈10](東京都公文書館所蔵)
※一番小学は番町学校。
[図12] 南海学校設立伺(東京都公文書館所蔵)
[図13] 麻布学校設立伺[注釈11](東京都公文書館所蔵)
[図14] 白金学校設立伺(東京都公文書館所蔵)
白金学校は明治9年1月12日付1月15日からの開業届出後、下の設立伺を出した。
開業以前の設立伺は見当たらない。
[図15] 桜田・飯倉・芝・棲霞学校設立願・伺(東京都公文書館所蔵)
青山・桜田女子学校の設立願書は見当たらない。
(明治九年十月十八日願出)
(「東京都立教育研究所資料」変形・東京都公文書館所蔵)
[図16] 南山学校設立伺(東京都公文書館所蔵)
[図17] 桜田女学校校舎(東京都立教育研究所『東京教育史資料大系』・東京都公文書館所蔵)
これによって、官・公・私立の観念が初めてはっきり定められた。
東京府は、その年の11月に次のように督学局へ届けた。
学校名称之儀ニ付先般御布達之旨有之公私立区別相立候ニ付テハ番号混淆シ不都合之儀モ有之候ニ付別紙之通改正候条此段申進候也
明治7年11月までは、各中学区毎に公立私立を通じて学校番号がつけられていたが、ここで初めて公私立を区別するようになった。
明治11年、東京府が15区制となり、芝区、麻布区、赤坂区が誕生、それに伴い各学校はそれそれの区に所属した。芝区は鞆絵、桜川女子、御田、南海、白金、桜田、桜田女子、芝の8校、麻布区は、麻布、南山、飯倉の3校、赤坂区は、赤坂、青山の2校となり[注釈12]、港区地域では合わせて13校であった。明治9年、第八大区に棲霞学校が開校したが、児童が少なく運営が困難なため、1年足らずで青山学校の分校となり合併された。畑地が多く集落のまばらな青山地域の発展は緩やかで、明治39年、青南小学校設立までの30年間、青山学校が広い学区域を持ち続けていった。
本区の公立小学校の設立の様子を、年を追ってみると[図18]のようになっている。
[図18] 港区地域の公立小学校設立(東京都公文書館所蔵資料による)
関連資料:【文書】教育行政 公立学校開設並びに合併
関連資料:【文書】小学校教育 桜川学校設立
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関連資料:【図表および統計資料】教育行政 区立小学校増改築等の状況
関連資料:【学校教育関連施設】
関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (3)仮小学や郷学(ごうがく)から公立小学校へ