「教育令」施行以後の変遷

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 港区地域の公立小学校は、明治12年の芝学校以後、同22年の赤坂学校分校まで設立されていない。その間、地域住民の援助によっての増改築で、児童の収容をはかり、内容充実に努めた[図19]。
 

[図19] 港区地域の学区と公立小学校分布図・明治12年(港区立三田図書館発行『近代沿革図集』による)

 
 東京府は、「教育令」改正を受けて、明治15年に教育諸規定を改正整備したが[注釈13]、「小学教則」の初・中・高等科の実現に向けた動きが、「小学教則改正及校舎移転之儀」という麻布区学務委員から東京府知事への上申書に現われている。
 
  第一項
  麻布校ハ生徒等運動ヲナスノ地ニ乏シク加之校舎大破ニ付早晩改造ヲ要スル場合之処現今学校配置ノ都合モ有之ニヨリ更ニ該校舎ヲシテ東鳥居坂町三番地当区共有地へ移転セシムルコト
  第二項
  麻布校移転ニ付同所ハ区内凡ソ中央ノ地ニ位スルヲ以テ更ニ一区共通ノ高等小学トシ又便宜ノタメ初等科ヲ付属セシムル事
  第三項
  南山・飯倉二校之義ハ区内東西ニ分立セルヲ以テ各其方面ノ中等小学トシ又付属トシテ両校共初等科ヲ設クル事
  右至急御認可相成度此段上申候也
 
 これによると、麻布学校の校地が狭く、校舎の破損も甚しいので東鳥居坂町に移転させるが、これは麻布区のほぼ中央にあり3校共通の高等科を設けるのに適しているので、初等科の附属をもつ高等小学麻布学校とし、南山・飯倉の2校は区内の東西にあるので、初等科の附属をもつ中等小学南山学校と飯倉学校としたいという願いである。このことは、麻布区を一学区と考え、「小学教則」が初等・中等・高等の3科に分けられたことに対応して就学の便を図ったものである。
 なお、赤坂区の赤坂[注釈14]・青山学校の設置規則には、設置の目的にただ「小学科」とのみ記してあるが、これは初・中・高の3科が併設されていたものと考えられる。芝区の公立学校は3科の設置を明記している。3区のそれぞれの実情に合った設置方法がとられたものと思われる。
 明治18年に、「教育令」は再改正されたが、その主な理由は教育費の軽減であり、学校維持は区町村費から授業料に移行されている。
 このような教育情勢の中にあって、東京府は「教育令」の再改正を受けて、大規模な組織改正を明治18年に取りかかっていた。しかし、すでに各区町村予算ができあがっていたので、明治18年は見送り、同19年より実施するところに、「小学校令」が公布されたので、同令に応ずる形で尋常(じんじょう)科・高等科各4年の小学校を指定した。港区関係は[図20]のとおりである。
 東京府は、学務課に学事改正取調委員会をおき、郡区長の意見を求めその回答を基に指定している。府学務課は将来永遠の目的をもって企画したといっている。
 

[図20] 尋常科・高等科の指定校

 
関連資料:【文書】小学校教育 赤坂小学校の小学科設置
関連資料:【図表および統計資料】教育行政 教育費の変遷 一般会計決算総額と教育費決算額 (通年)(明治期)(昭和22~38年度)(昭和39年度以降)
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