私立小学の設立認可[図21]

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 明治5年(1872)8月2日に「学制」が太政官(だじょうかん)から布告されると、翌3日に文部省は、次のような布達第13号を各府県に達し、既設の学校、家塾、寺子屋を一旦廃止し、改めて開学願書を提出させる措置をとった。

[図21] 私立小学校設立願(東京都公文書館所蔵)

私立小学校は、小学校数差加(さしくわえ)願を出し、番号を称えることができた。(神谷学校・烏森学校・桜田学校の例)


 
  今般被仰出候旨モ有之教育之儀ハ自今尚又厚ク御手入可有之候処従来府県ニ於テ取設候学校一途ナラス加之其内不都合之義モ不少依テ一旦悉令廃止今般定メラレタル学制ニ随ヒ其主意ヲ汲ミ更ニ学校設立可致候事
 
 これによって、東京府下では78通の私塾開業願書と、1107通の寺子屋開業願書が提出されている。その中で、港区地域は私塾17、寺子屋47通(東京都公文書館蔵の開業願)で、東京府の約5・4パーセントを占めている。
 これらの寺子屋・私塾は、東京の市街(朱引(しゅびき)内)では、神田・日本橋・京橋・本所・深川などいわゆる下町に密集していたようであるが、港区地域では新橋から金杉にかけての街道筋、芝愛宕地区、そして芝増上寺の西側(飯倉、宮本町辺)にかたまって多い。特に愛宕地域に私塾が集まり、芝の街道筋や麻布地域に寺子屋が多いことは、それぞれの地域の住民層の性格を反映したものであろう。
 東京府は、第一大学区督学局の指示に従い、人口約600人を目途とした1023の小学区を区分してはいるが、実際には行政区の小区115に各1校だけの公立小学校設立をめざした(「東京府管下中小学創立大意」)。
 そのため、東京府は「家塾教員輩ノ講習所ニ於テ学フ所ノ科目ニ準拠シ私立小学ニ改メント請フ者ハ之ヲ許シ」として、家塾・寺子屋を私立の小学校にして積極的に公、私の併置策を講じて、近代公教育の中に私立小学を位置づけた。そして教員講習所における講習卒業者(手習師匠達)の開学願は全部認可する方針をとり、今までの読・書・算の教育内容から、文部省や東京師範(しはん)学校制定の「小学教則」の実践化に努め、私立小学校の保護育成によっての充実をめざした。[図22]は、私立と公立の学校数の変化を表わしたものである。
 

[図22] 公・私立小学校設立概況(『文部省年報』)

 
 当時の私学に関する考え方は多様で、長野県の「旧習ニ泥ミ生徒入校モ進兼小学校設立ノ障害」と、家塾・私塾を廃止する方向や、群馬県の「家塾ハ従来ノ弊習ニ泥ミ必用ノ学科ヲ普及スル障害ヲナス」とする学校教育の発展をさまたげるとの考え方、更に埼玉県では「ヒソカニ子弟ヲ相集メ習字ノミ相授候様ノ義間々有之」といって私家塾の開業を禁止するよう文部省督学局へ伺を提出したり、一方、京都府では「文部省所定ニ由テ教則校則等ヲ定ムト雖モ沿襲ノ久キ未ダ一朝ニ之ヲ変スル能ハス」と民情に即する方針をとるなどが見られた。
 東京府に私立小学校が多いのは、全員就学を建て前とする文部省の方針に沿うため、公立小学校の整備、充実に努めながらも、私立小学校に多くの児童を入れて就学率を高め、その私立小学校の内容向上を図っていこうとする府の方針を表わしている。しかし、多くの私立小学校の内容は、すぐには、公立と同様にはならなかった。
 東京府は、1年ごとに開学願を提出させ、私立小学の規模、内容を把握する管理体制をとった。そして、その増減を『文部省年報』所収の「東京府年報」に載せている。
 
  学制頒布以降今ニ至ル迄公学ヲ設立スル僅々一百二十一校ニシテ其六大区ノ範囲ニ在ルモノハ只四十九校アルノミ此ノ他私立小学六十五校私学八百五十七校アリ但シ私立小学即チ私学ニシテ其名同シト雖(イエド)モ其質ハ大ニ異ナリ蓋(ケダ)シ所謂(イワユル)私立小学ハ該府師範学校ノ教則ニ因テ生徒ヲ教授シ公立小学ノ一部ニ居ル(定期試験ノ節ハ官員臨席シテ生徒ノ学業ヲ見ルヲ例トス)而シ私学ト称スルモノハ読書習字算術ノ中一科若クハ二科ヲ欠キ学則全カラサルモノ多ク或ハ皇学支那学数学医学法律農学ノ如キ一科ノ学ニ属スルモノアリ或ハ外国語アリ之ヲ部分スレハ変則小学六百五十、一科ノ学ヲ授クル者一百三十四英仏独学共ニ七十三学舎トス(明治9年)
 東京府全体の私立学校は、明治11年ごろまでは、開・閉業を続けながらも、全体としては漸増し、それ以後整理されて減少していった。公・私立小学校の児童数がようやく均衡を保つようになったのは、『東京府年報』によれば、「学制」公布後13年の明治18年で、「公立小三万四千九百六十一名、私立小三万三千六百六十二名」となっていた。
 港区地域の私立小学(正則・変則を含む)も、また「港区地域の私立小学校数の変移」[図23]でわかるように、東京府と同じ傾向を示し、明治10年にピークを迎えている。そして、明治17年の「公私立小学校分布図」にみられるように、公私立小学校数の割合で約1対4、就学児童数は約同数になってきた([図24][図25]参照)。
 

[図23] 港区地域の私立小学校数の変移(東京都公文書館所蔵資料より作成)


[図24] 公・私立小学校分布図・明治10年


[図25] 公・私立小学校分布図・明治17年

 明治17年の芝・麻布・赤坂区にあった私立小学校は[図26]の45校である(『東京府学事第十二年報』明治18年)。
 なお、旧『港区教育史』下巻690、691ページに、公私立小学校一覧表と、その分布状況を掲げておく。

[図26] 明治17年私立小学校[注釈15] (東京都公文書館所蔵資料より作成)
[図25] 公・私立小学校分布図・明治17年も参照。

関連資料:【くらしと教育編】第2章第2節 (4)寺子屋から私立小学校へ