就学率を高める私立小学校

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 「学制」から「小学校令」まで、東京府の教育行政をみる上で、私立小学校は重要な位置を占めている。それは、明治5年(1872)5月10日、文部省二等出仕として中央政府に迎えられ、その20日後に東京府知事に任命された、旧幕府の若年寄であった大久保一翁との関係もあったのであろう。『風俗画報』185号(明治32年3月10日)は、
 
  明治五年学制仰出サレ寺子屋ヲ廃止セントスル折柄、当時ノ府知事大久保一翁氏ハ諸国近在ノ寺子屋ハ夫(ソ)レ夫レ田畑ノ所有アリテ一時生活ニ差支無キモ、市中ノ寺子屋ハ年来此業ヲ営ミテ生活セシ者ナレハ、突然廃止ノ令出ナバ路頭ニ迷ハントテ暫(シバラ)ク従前ノ儘(ママ)ニ据(ス)エ置……(蓬軒居士『寺子屋』)
 
と述べている。東京府民の動向を考え、民費負担の能力を考慮し、無理な公立小学校の設置を避けて、旧寺子屋・私塾を私立小学校として認可した。今までの寺子屋師匠と寺子との父祖伝来の師弟関係の継承と、安い授業料で父兄の教育費負担軽減による就学率の向上をめざしたものであった。そして寺子屋師匠の生活も考えた上での方策でもあった。
 港区地域の場合、麻布・南山小学校の沿革誌に、付近の私立小学とのかかわり合いをみることができる。
 
  在来ノ木造二階屋ヲ修繕シ校舎ニ充テ、別ニ寄附金ヲ以テ洋風校舎ヲ増築シ以テ本校ヲ組成ス、而シテ近隣ノ寺子屋師匠ヲ誘等シ各其ノ所属門弟ヲ率ヒ来リテ授業ヲ行ヒタリ(明治10年・麻布学校)
 
  一月卅日戸長村木義方、磯信義(私立小学校主)、中川隆玄(同上)、加藤規清、丸山喜吉、青山盈教、島飼明徳(折原学校六等授業生)、飯嶌知横 等七氏ノ内三人ヲ撰択シテ本校教員ニ任ゼラレンコトヲ請フ
  是ヨリ先中川隆玄(本村町九番地)、磯信義(宮下町十一番地)ノ二校主自校ノ生徒ヲ率ヒテ本校教員ニ任セラレンコトヲ請フ故ニ戸長此ノ請ヒアリ
  十二月十六日 此日東京府士族山田景敏、千葉県平民生沢従吉、京都府士族青山盈教、及ヒ東京府士族磯信義ヲ本校教員トス(明治9年・南山学校)
 
  当時近傍私立小学校尚ホ盛ニシテ其数亦頗ル多シ宮下町ニ宮下学校(生徒凡ソ百十一名)アリ材木町ニ早川学校(生徒四十人)アリ坂下町ニ韮沢学校(生徒十四人)アリ本村町ニ中川学校(生徒十八人)アリ三軒家ニ渡辺学校アリ佐々木学校(桜田町生徒二十八人)アリ武田学校(同上生徒十六人)アリ山本学校(宮村町生徒三十三人)アリ皆公立校ノ信用尚ホ未タ厚カラザルニ乗シ我田ニ水ヲ引カントス当路者ノ苦心亦想フヘキナリ(明治10年・南山学校)
 
  一月十七日 此月区内公私各校年間ノ学事報告ヲナス此時ニ当リ区内私立校舎大ニ増加シ大小合セテ十四校アリ宮下校生徒百三十五人、韮沢校生徒十二人、早川校四十一人、中川校二十二人、渡辺校三十五人、佐々木校三十五人、武田校九人、山本校三十人、(以下小学則ニ依ラザル校舎)学農社、稲村校、敬業塾、宮崎家塾、共愛学校、河村女分校是レナリ(明治11年・南山学校)
 
 明治11年の飯倉(いいぐら)学校設立時の私立小学校との関係は、『麻布区史』『飯倉小記念誌』には「教員五名、児童数八五名、私立田辺小学校を合併して此の数を得たのである」とあり、当時の麻布地区の公立学校(麻布・南山・飯倉)は、周辺の私立小学の児童を受け入れていったものと思われる。当時磯信義経営の宮下学校は、教師4名、児童135名、前年までの校主は姉と思われる磯セイとなっており、中川隆玄の中川学校は、教師1名児童22名の個人経営の私立小学であった。
 磯信義は、公立小学の教師に転じたが、宮下・中川両校は存続しており、父兄との今までのつながり、経済状態、教育への理解程度(日常生活に必要な読書算を教わることができ、12~13歳で職業を手にする)に合わせて、公、私の小学校は共存していたものと思われる。当時公立小学の教師に磯信義以外に名をみつけることができないのは、他の者はその資格が不十分のためであったのであろうか。また児童も、どのようにして各級に配されたかなど、資料が見当らず不明である。
 また、当時までの公立学校は「区内有志ノ輩」の寄附金をもって増改築に努めている。しかし、それをもってしても公立学校での就学児童の受け入れは間に合わず、明治10~11年にかけて、私立学校(正則・変則を含めて)は増加していることが、前掲の私立小学校数の変移表や南山学校の学校沿革誌によって知ることができる。
 その状態を公立の各学校の沿革誌からみてみると次のようである。
 
  明治十年ニ至リ生徒ノ数頓(トミ)ニ増加シテ満員ヲ告ク然ルニ入学ヲ望ムモノ尚ホ多キニ由リ世話掛等百方力ヲ竭シ遂ニ教場ヲ増築ス工事既ニ成リ生徒ヲ入ルルニ当テルヤ又狭隘(キョウアイ)ナルカ如シ爾(ジ)来生徒ノ数年一年ニ増加シ今又増築ヲ要スルナレトモ姑(シバ)ラク附属家ヲシテ教場ニ仮用シ入学者ヲシテ失望ナカラシムルヲ要セリ(鞆絵(ともえ)学校)
 
  当時生徒ノ数男女合セテ百名ニ出テス然レトモ日々増加ノ勢アリ由テ明治七年四月更ニ教室ヲ増築ス同十三年四月ニ至リ入学スルモノ俄(ニワ)カニ増加シ教場狭隘ヲ告ク由テ又三教場ヲ増築シ以テ入学志願者ノ望ヲ満タサントス工成リ生徒ヲ入ルヽニ当リ亦タ忽チ狭隘ヲ感ス然レトモ経費意ニ任セス遽(ニワ)カニ工事ヲ起スヘカラス尓来入学ヲ望ムモノ日ニ多ク一々之ヲ謝絶スルハ事務取扱上大ニ難事ヲ覚エシム明治十八年十二月玆(ココ)ニ漸(ヨウヤ)ク教場三箇所ヲ増築シ僅カニ入学者ノ十分ノ一ニ応スルヲ得タリ(桜川学校)
 
  明治八年六月三十日校舎狭隘生徒増員ニツキ区内有志ノ寄附ヲ以テ五十二坪二合五夕増築シ同年十一月十二日竣工ス同十二年九月八日生徒増員校舎狭隘ヲ告ケシヲ以テ三十七坪七合五夕内二十一坪二階建ヲ新築ス  (赤坂学校)
 
  明治九年教場狭隘ニツキ寄附金ヲ募集シ華族柳沢家、同稲葉家、世話掛井口久次郎、山田忠兵衛、手塚長八、田島安太郎諸氏及其他ノ有志者、生徒ノ父兄等ヨリ若干金ヲ寄送セラレ三教場ヲ増築ス  (南海学校)
 
 明治11年設立の私立小学遷橋(せんきょう)学校が、公立校に入れず就学の機会を逸することを設立理由にあげていること(第2節第2項(1)128ページ参照)や、芝、麻布、赤坂のどの地区においても、校舎増築や新築に苦労していることなどから、就学率を高めるという至上使命を達するためにも、私立小学校は公立小学校とのかかわり合いの中で大きな役割を果たしていったといわざるを得ない[図27]。
 明治11年の15区誕生以後を『文部省年報』所収の「東京府年報」でみてみよう。

[図27] 私立小学校設置願(東京都公文書館所蔵)

 
  (明治十二年)
  私立小学奨励ノ事モ亦稍(ヤヤ)緒ニ就クト雖トモ其期スル所固ヨリ永遠ノ事業タルヲ以テ実効ヲ旦夕ニ奏スルヲ欲セス抑将(ソモソモ)来教育ノ進歩ヲ図ルノ要領ハ第一益私立小学ヲ保護勧奨シ以テ其教則ヲ釐革(リカク)シ其授業法ヲ整理シ致底一般完全ノ学校タラシムルニアリ
  (明治十三年)
  教育令第三条ニヨリ変則小学ノ名ヲ廃シ六科ヲ具備セサルモノハ開業ヲ許サゝル旨ヲ達ス
  (明治十五年)
  私立学校ノ減少セシ所以ハ従来設置セルモノ習字算術ノ一二科ヲ教授スルモ猶小学ト称セリ然ルニ教則ノ改正設置廃止規則ノ変更等ニ依リ之ニ準拠スル能ハサルニ出テシモノ多キニ居ル
 
 芝、麻布、赤坂区のそれぞれの公・私立小学校について、このような具体的な資料は今の所発見されず、その詳細は不明であるが、「教育令」期の私立小学校の動向は、「東京府年報」に報じられたとおりであったと思われる。「東京都公文書館所蔵資料」にある、港区地域の私立小学校の休学、廃止の理由は、主に校主の老齢や死亡、発病によるものであった。
 東京府は、「小学校令」期に向けて、私立小学校の設立内容を重視し、開設もおさえる方針をとるとともに、既存の青山、御田(みた)、南海学校など、公立小学校の校地拡張や新建設等の拡充に努めたこと、更に明治後期の代用私立小学校の位置づけによって、私立小学校の就学率向上に対する役割は漸減の道をたどることになった。しかし、明治前期においては
 
  在学ノ長短ニ至テハ父兄ノ家産職業等ニヨリ大ニ其趣ヲ異ニスル所アリト雖モ概シテ家産中等以上ノ者ハ六年乃至八年間在学セシムルモ中等以下ノ者ニ至テハ僅々三四年ニシテ退学セシムル者十ノ八九ニ居レリ(『文部省第二一年報』所収「東京府年報」明治18年)
 
という状態であり、経済的事情もあり、父母などの就学についての意識も江戸時代のものから脱却するまでに至らず、「学制」公布後15年を経た明治20年の就学率は、芝区41・38パーセント、麻布区41・22パーセント、赤坂区は良くて61・75パーセント(『新修港区史』)であり、約半数の学齢児童は学校教育を受けていなかったのである。
 
関連資料:【文書】教職員 南海小学校生徒増加による教員の増員